naotoiwa's essays and photos

2020年02月



 吉祥寺に行くたび、必ず立ち寄る場所がある。井の頭自然文化園。ゾウの花子がいたことで有名な動物園である。その花子も4年前に亡くなった。でも、それからもずっと、昔も今もここに通い続けているのは、動物園に隣接するエリアに点在する北村西望の彫刻が目当てである。何度見ても飽きない。

 ここは、長崎の平和祈念像で有名な北村西望が、東京都から土地を借りてアトリエとして使っていた場所である。そのアトリエが現在でも他の二棟の建物(彫刻館AとB)とともに動物園の奥に建っている。で、数多くの西望の彫刻群の中で、とりわけ好きな作品がこのアトリエ館の壁に掛かっている。それが「寄木装飾」である。これ、他の彫刻を制作した際の余った木片を閂で繋いだだけのもので、西望の他のマッチョな塑像群に較べるとなんとも簡素で小ぶりな印象を受けるが、見れば見るほど味わい深い。西望自身も、これらの寄木装飾を「まるで天国にいるようだ」とことのほか慈しんでいたようである。

 北村西望。1884年、長崎県生まれ。1987年、東京都武蔵野市で死去。

to the forest


防雪服

Summaron 35mm f2.8 L + MM


 雪国にて。




 クロード・ルルーシュ監督の「男と女 人生最良の日々」を見た。というか、見てしまった。80年代にも一度、20年後を設定した続編が作られたことがあって、こちらは見た後で後悔した。ましてや今回は53年後の設定。ジャン・ルイは89歳、アヌーク・エーメも87歳。これは、見ない方が賢明であろうとずっと思っていたのであるが、いやいや、今回のは絶対に見るべき! と友人に薦められ、恐る恐る映画館に足を運んだのであるが……。





 良かったのである。クロード・ルルーシュは今回は無理に新たなストーリーを作ろうとはせずに、53年後のふたりのダイヤローグをウイットとユーモアを効かせて撮影し、それを原作のセピアカラーの映像と再構成させつつ、なんとも人生の滋養に満ちた作品に仕上げている。

 1966年の原作「男と女」。20代の頃、この映画を何度見たことだろう。フランスかぶれになった原因のひとつは間違いなくこの映画にある。台詞はほとんど暗記している。ドーヴィルに行きたくてたまらなくなって、会社に入って最初のフランス出張の際、日曜日に空き時間が出来るやいなやSNCFでパリからドーヴィルに向かった。ワンレングスの女性に弱くなった(?)のもこの映画の中でのアヌーク・エーメのせいである。

 そして、今回の第三弾となる「男と女 人生最良の日々」。ラストが素晴らしかった。1976年に撮影された短編映画「 C'était un rendez-vous 」の映像がリミックスされているのだ。早朝のパリを疾走する車のワンテイク主観映像。モータースポーツをこよなく愛したクロード・ルルーシュ監督自身のアドレッサンス(adolescence)が切なくて愛しくて、ちょいと涙が出てしまった。彼も御年80歳を過ぎている。そして、パリは、やはり掛け値なく美しい街なのだ。


空と石と桜

Elmarit 24mm f2.8 of X2


 空と岩と桜と。


湯ヶ野桜

iPhone 11 + Color Efex Pro


 冬の桜。




 ユヴァル・ノア・ハラリ氏の『21 Lessons』、読了。今回も前作の『サピエンス全史』『ホモ・デウス』同様、とても示唆に富んだ内容だった。特に考えさせられたのは20番目のレッスン、「意味」。サブタイトルに「人生は物語ではない」と記されている。物語。我々のこの世界は、そして我々自身のこの人生は、さまざまな「物語」の虚構の力で作動している。つまりは、

 人間の力は集団の協力を拠り所としており、集団の協力は集団のアイデンティティを作り出すことに依存しており、どんな集団のアイデンティティの基盤も虚構の物語であって、科学的事実ではなく、経済的な必要性でさえない。(p.180)

 ということ。それが、情報テクノロジーとバイオテクノロジーの行き着く先において、世界の「物語」、私という「意味」が瓦解する。

 あなたはけっきょく、自分の核を成すアイデンティティが神経ネットワークによって創り出された複雑な錯覚であることに気づく。(p.322)

 人生はばらばらになり、人生の各期間の間の連続性がしだいに弱まる。「私は何者なのか?」という疑問は、かつてないほど切迫した、ややこしいものとなる。(p.341)

 あれ、この考えは私ではないぞ。ただの生化学的な揺れにすぎない!」といったん悟ると、自分が何者か、どんな存在か、見当さえつかないことにも気付く。(p.387)


 「語れない」世界、「語れない」私。コミュニケーションの世界では、物語(storytelling)は欠くことのできないもの。表現を生業にしてきた自分にとって、人生とは「いかに語るか」の連続だったと言っても過言ではない。何度も惑い悩んで、さまざまな分野の「物語論」「ナラティブ論」を読み漁ったりもした。物語はすでに語り尽くされているのか? いや、メディアの一大変革期にはまったく新しい物語が出現しうる可能性もあるのではないか?……そんな思いを込めて、個人で仕事をするときの屋号を「もの・かたり。」にもした。その「物語」が一新されるどころか、消失してしまいかねない時代。これはかなりタフな話である。というか、コミュニケーションのシステムそのもののコペルニクス的転回である。

 そんな時代には、

 自己の狭い定義を脱することが、二十一世紀における必須のサバイバルスキルになってもおかしくない。(p.331)

 アルゴリズムが私たちに代わって私たちの心を決めるようになる前に、自分の心を理解しておかなくてはいけない。(p.408)

 とユヴァル・ノア・ハラリ氏は言う。

*引用部分はすべて、
ユヴァル・ノア・ハラリ / 柴田裕之訳 『21 Lessons 21世紀の人類のための21の思考』(河出書房新社、2019)より。



dawn

Elmarit 24mm f2.8 ASPH. of X2


 dawn.



My heart leaps up when I behold
A rainbow in the sky:
So was it when my life began;
So is it now I am a man;
So be it when I shall grow old,
Or let me die!


The Rainbow by William Wordsworth
 


年とってもそうあるべき、だよね。さもなくば、だよね。

根岸

Summilux 35mm f1.4 + M10-P + Color Efex Pro


 根岸競馬場@南京墓地。


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