2019年11月
紅葉
午後5時を過ぎたらあっという間に日没である。晩秋。すぐに闇夜がやってくる。篠突く雨が降っている。霧。街灯が滲んでいる。見下ろすように建っているマンションの部屋の明かりも幻想的だ。誰かが僕の跡を追いかけている。誰かに襲われる光景が既視感となる。あるいは僕ひとり、どこか異界に迷い込む。落ち葉を踏みしめると腐った臭いがする。紅葉。そう言えば響きはいいが、ようは朽ちた葉のことだ。昼間、街にはまだまだいい匂いが溢れていた。珈琲豆をローストする匂い。すれ違う女の子の綺麗な匂い。日向の匂い。それが、日が暮れると一変する。どこかから雑音の混じったラジオが聞こえてくる。ずいぶんと古い歌謡曲が流れている。ひとりじゃないって素敵なことね。
Summicron 50mm f2 R + fp
石蕗
しっぽ
犬も猫も、タヌキもキツネも、馬も牛も。動物ってなんでみんなあんなに可愛いんだろう。常々思う。で、気がついた。それは、シッポがあるからではないかと。
「ただいまぁ」 ワンワンワン。階段を登っていく。ウォンウォンウォン。「元気にしてた?」 目と目が合う。そして、くるんくるんとシッポを振ってくれる。
シッポは正直だ。嬉しいときにくるんくるん。厭なときはだらりと下がる。シッポはウソをつかない。だから動物たちは誠実だ。隠したりしない。取り繕ったりしない。装ったりしない。裏腹なことはしない。
人間にもシッポが付いていればいいのにと思う。そうしたらもう、みんなウソをつかなくなるのに。そんなことを思いながら、尾てい骨の名残をさすってみたりする。
Summilux 35mm f1.4 2nd + fp
今日はそろりそろり、足音を立てずに階段を登ることにする。まだ気付いていない。で、突然「ただいまぁ」と声を掛けたら、どんなふうにしっぽを振ってくれるんだろう?
狐憑き
秋の寺
秋の空
突然、いろんな人が語りかけてくる。ふいに、路地の奥から。あるいは木洩れ陽に乗じて。何も変わってはいない、と。ずいぶんと変わってしまった、と。
秋の陽射しはシルエットを長く伸ばす。でもそれは、この世界に実態なんてありはしないと嘲笑うような薄っぺらい影だ。これだから、秋は始末に負えない。
高い秋の空から逃れたくて、私は古い木製の階段を登り、屋根裏部屋に閉じこもる。分厚いカーテンを引いて、そこで、日が完全に暮れるのを待つ。
20時。もう大丈夫だろうと思ってカーテンを開けると、目の前に、まるでイタロ・カルヴィーノの小説に出てくるような、大きな、ぬめぬめとした月が黄金に輝いている。ほうら、思った通りだ。これが秋の本性なのだ。
再び分厚いカーテンを引いて、私はまた暗闇の中に閉じこもる。月が上空に消えてしまうまで、秋の空が清澄な星の光だけになるまで。
清流
くさりかけて
子どもの頃、歳をとった大人たちの歯を鳴らす音がイヤでイヤでたまらなかった。シーシー、チィッチィッ、シーハーシーハー。そうやって、爪楊枝を併用しながら歯の隙間に詰まった食べカスを取り除くのだ。そうして、彼らには厭な口臭があった。近づくと甘ったるい汚臭がぷんとした。幼い頃のボクは、彼らの歯を鳴らす音とその口臭を、憎悪していた。
昨日、久しぶりに開高健さんのデビュー作『パニック』を読み返していたら(芥川賞作家の大岡玲さんが岩波文庫で『開高健短篇選』を出されています。大岡玲さんとは光栄にも現在の本務校でごいっしょさせていただいていています)以下のような文章が出てきた。
課長は胃がわるいのでひどく口が匂う。出入業者に招待された宴会の翌朝など、まるでどぶからあがったばかりのような息をしていることがある。生温かく甘酸っぱい匂いだ。口だけでなく、手や首すじからもその匂いはにじみ出てくるようだ。白眼の部分にある黄いろくにごった縞を見ると、いつも、この男はくさりかけているなと思わせられる。
課長は楊枝のさきについた血をちびちびなめた。俊介は息のかからないように机から体をひき、相手の不潔なしぐさをだまって眺めた。課長はひとしきり派の掃除をすませると、眼をあげ、日報の綴りをちらりとふりかえってたずねた。
開高健 / 大岡玲(編)『開高健短篇選』(岩波文庫)、pp11-12
『パニック』における鼠のおぞましい異常繁殖と死の舞踏のイメージが、この課長の口臭の描写と見事に呼応している。
さて、自分も今や、当時憎悪していた大人たちの年齢になってしまった。で、彼らがシーハーしたくなる気持が今ではよくわかる。歳をとると歯茎が後退してどうしても歯の間に隙間や歯周ポケットができてしまうのだ。そこに食べカスが溜まる。手のひらを口の前にかざして自分の息を吹きかけてみたら、ぷんとかすかにあの匂いがした。……自分もついに「くさりかけて」きたのだろうか?