naotoiwa's essays and photos

2019年08月



 地階のジャズ喫茶である。70年代からずっとあった。階段を降りていくと、湿気た匂いがプンとして、出てくる珈琲は酸いた味がした。けれど今は違う。現代に生き延びるためにはジャズ喫茶も変わらなくてはならない。店内はずいぶんと明るくなった。大型の業務エアコンからはキリリと冷えた冷気が流れ出し、空気清浄機が饐えた匂いを除去している。古めかしいJBLのスピーカーは健在だが、真空管アンプもLPレコードプレーヤーも姿を消した。ピアノ曲がクリアなデジタルサウンドで流れている。明るいジャズ喫茶、と僕はつぶやく。

 それでも客はあまり入っていない。若い女の子がひとりだけ、一番隅のテーブルで壁に上半身をもたせかけながら文庫本のペエジを繰っている。空調が効きすぎて寒くなったのか、彼女はトートバックから黒いカーディガンを取り出してノースリーブのワンピースの肩に羽織った。それからしばらくして。キース・ジャレットが流れ出すと、彼女はカチリと銀製のライターで煙草に火を付け、目を瞑って聴き入った。シャープな横顔のシルエットが紫煙に揺れている。

 それを遠くから眺めながら、僕はちょっと救われた気分になる。今でもこうした若い女の子がいることにホッとする。群れずにたったひとり、読みたい本があって。煙草の吸い方が格好良くてキースが好きで、静かに自分の内面と向き合いながら「思案に暮れる」若い女の子が、今でもちゃんと存在していることに。

 Keith Jarret, My Song。この曲を初めて聴いたのは、僕が彼女と同じくらいの年頃だったろうか。




 

plage

Summilux 50mm f1.4 ASPH + M10-P


 à la plage.


島巡り

Summilux 50mm f1.4 ASPH. + M10-P


 島巡り中。


neu


 ちょいとお絵かき。




 いちおう、ワタクシも研究者の端くれなので(汗)、年に一本は論文もしくは研究ノートを執筆すべく格闘している。今年の夏に取り組んでいるのは、現代の広告クリエイティブと近代日本文学を関連付ける考察で、今までにもよく言われていることだが、かの太宰治の文章をコピーライターの資質として改めて検証するというものである。現在、三鷹の太宰治文学サロンにてその名もズバリ「コピーライター太宰治」展だってやっているし、そうしたことを論じる近代日本文学の研究者の方々は以前からたくさんいらっしゃるが、広告クリエイティブの研究者や広告の実務制作者が太宰治のコピーライティングについて詳細分析している書籍や論文はあまり見たことがない。ので、ここは太宰ファン歴かれこれ四十年余のワタクシが奮闘してみようかと。コピーライティングの見地から改めて太宰作品を読み直してみると、やはり女性の一人称文体の「斜陽」や「女生徒」がわかりやすく秀逸である。

 恋、と書いたら、あと、書けなくなった。

 あさ、眼をさますときの気持は、面白い。

 などなど。でも、コピーライティングの究極の奥義は、実は「フォスフォレッスセンス」という小品に隠されているのではないか、というのが現段階での論旨である。その根拠は、……

 さて。コピーライティングとは関係ない話だが、太宰がこの「フォスフォレッスセンス」を書いたのは亡くなる前の年の5月か6月。この作品の後に「斜陽」「人間失格」そして絶筆となった「グッド・バイ」が続くが、ワタクシはこの「フォスフォレッスセンス」にこそ、太宰の死に対する想いが最も表れているように思う。後半に出てくる、夫が南方から帰ってこない「あのひと」は、ともに入水した山崎富栄がモデルであろうし。

sora

Summilux 50mm f1.4 2nd + M10-P


 sora.


山の神

P.Angenieux 35mm f2.5 + M10-P


 山の神。


馬

GR 18.3mm f2.8 of GRⅢ


 エルメスの広告写真にでも使いたい風景。




 ようやく梅雨もあけ、いよいよ盛夏である。ビーチはどこも、ひとひとひとの波である。「世の中、夏休みなんだね〜」と海の家のテントの中で彼女がつぶやいている。「8月に入ると、夏休み、あっという間に過ぎちゃうんだけどね」

 例によって、今年もサーファーの女ともだちとこうして海に来ているのである。「会うの、ものすごく久しぶりな気がする」「一年ぶり。毎年恒例」「いや、一年以上会ってなかったんじゃない?」「あ、去年は6月に会った。梅雨明けが異常に早かったからね。それが今年はもう8月」「一年と二ヶ月ぶりってこと?」「そう」

 「最近、どう?」「……トシだね」「らしくないなー、なんかあった? 自信喪失?」「いや、まだ全然ズレてないと本人は思っているんだけどね」「なら、それでいいじゃん」「でもねえ」「でも?」「自分がいいと思ってやってることと、まわりがそれを理解してくれているかのギャップというか」「そんなの、誰だって、どんな時だってあるよ」「ある。でも、トシを取るとそのギャップがひどくなるみたいなんだ」「なんで?」「なんでかわからないけど、時には180度違って相手に見られていたりすることがある」「180度? それって正反対ってこと?」「ああ、で、ひっくり返る」「ひっくり返る?」「ラストで、自分でいいと思ってやっていたことが、オセロゲームみたいに、どんでん返し」「……ううむ、それはキツいか」

 「アタシももう若くはないけどね、そういう経験は、ないなあ」「僕より二十も若いからね」「そういうことじゃないと思うけど」「ん?」「年齢には関係ない」「じゃあ、なんだろう?」「……たぶん、ストーリィ、つくろうとし過ぎなんだよ」「ん?」「いろいろ順序立てて積み上げすぎなんだよ、きっと」「……」「正しく積み上げれば積み上げるほど、逆にどこかの切り換えポイントひとひねりで、ゴロッと、そのまま全体がひっくり返る」「うむ」「ワタシみたいなおバカはさ、そういうの、やりたくてもできないからさあ。万事が思いつきのつぎはぎだらけ。でも、だから、切り換えポイントひとつぐらいどこかでひねられても、どうってことないw」「……なるほど」

 彼女のひと言で、なんだかスッと腹落ちがした。

 海岸から五十メートルぐらい沖合で、波に乗り損ねたサーファーが空中でもんどり打って一回転しているのが見えた。鮮やかなオレンジ色のパンツをはいている。しばらくして海面にせり上がって来た彼はボードに捕まりながら海岸で待っている仲間に向かって手を振っている。とても楽しそうに。

 僕の隣に座っているサーファーの女ともだちも鮮やかなオレンジ色のビキニを着ている。全身きれいに小麦色に焼けている。髪はソバージュ。

 「ワタシももうあと二年で四十の大台だよ。いつまでも肌なんか焼いてる場合じゃないんだけどね」「キミは、全然変わんないよ」「お世辞はいいから。……最近はシミが消えないからね、もうやけくそ。上書きして焼いてごまかしてんの」と彼女は笑った。笑ったときの目尻のしわが去年よりもほんのちょっとだけ深くなったような気がしたけれど、それは、彼女の深みがまた一年分増したということだ。すらりと伸びた長い脚から、今年も甘いココナッツオイルの香りがしている。



 8月である。台風も去ってようやく梅雨が明けた。去年より一ヶ月も遅い。というか、去年の梅雨明けが異常に早すぎたのだけれど。でも、そのせいか、35度を超す猛暑日なのに、明け方には蜩がもうかまびすしく鳴いている。盛夏と晩夏がいっしょにやってきたみたい。まさに、太宰治が『ア、秋』で書いていることだなあとしみじみ思う。

 秋ハ夏ト同時ニヤッテ来ル。と書いてある。
 夏の中に、秋がこっそり隠れて、もはや来ているのであるが、人は、炎熱にだまされて、それを見破ることが出来ぬ。耳を澄まして注意をしていると、夏になると同時に、虫が鳴いているのだし、庭に気をくばって見ていると、桔梗の花も、夏になるとすぐ咲いているのを発見するし、蜻蛉だって、もともと夏の虫なんだし、柿も夏のうちにちゃんと実を結んでいるのだ。
 秋は、ずるい悪魔だ。夏のうちに全部、身支度をととのえて、せせら笑ってしゃがんでいる。


jizoh

Summicron 35mm f2 2nd + MM

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