naotoiwa's essays and photos

2018年11月



 Chilly Gonzales のピアノが好きである。予定調和のメロディにキラリと不協和音が混ざる。イージーリスニングのように安心させておきながら、思わぬ落とし穴が待っている。リリカルでクール。……その加減がちょうどいい。とても落ち着く。まさに chill な感じ。

 Chilly Gonzales のピアノはくぐもった日によく似合う。空気の粒子が細やかに振動する。Chilly Gonzales のピアノはなにかを想い出している時によく似合う。ぼんやりと未だこれからの夢を心の中に描いている時に、よく似合う。



 

芝離宮

FE 35mm F2 + α7s


 夜の水鏡。




 冬が近くなると、無性に浅草に行きたくなる。

 午後3時。田原町で地下鉄を降り、まずはパンのペリカンを覗いてみるが、案の定、食パンもロールパンもすべて売り切れ。棚にずらりと並んだ予約済みの食パンを眺めているうちに、どうしてもガマンができなくなって百メートルばかり歩いた先の直営のカフェに入り、炭焼きトーストを注文する。バターとジャムをたっぷり付けて食す。……とりあえず満足である。

ペリカン

 でも、さすがにトースト一枚だけでは腹は満たされぬ。ならば、もう一軒。今度は尾張屋に行こう。いつものように永井荷風先生に倣ってかしわせいろを注文しよう。

 さてさて、浅草に来たのだから、隅田川沿いに出て黄金のうんちでも眺めながら夕暮れ時の秋風に吹かれようか。それともやはりまずは浅草寺詣か。でも、お神籤を引くのだけはよそう。浅草寺のおみくじは凶ばかり出るからな。

 あるいは、浅草駅から東武鉄道に乗って東向島で降り、かつての玉ノ井あたりを散策するのはどうか。あるいは、ひさご通りまで歩いて行って、かつての浅草十二階に思いをはせるのはどうか。当時の遺構が出土したという話を最近ニュースで耳にしたばかりだ。あるいは、合羽橋に行ってレトロなデザインのコーヒーミルでも探すのはどうか。

 あれこれ迷いながらとりあえず田原町の駅まで戻ったところで、あ、そうだ、近くに等光寺があったっけ。……久しぶりに啄木さんの顔を拝んでいくことにしよう。啄木さんは相変わらずの泣き顔である。めそめそ泣いてる。こんな顔して彼はあのエロチックなローマ字日記を書いたのか? こんな顔して彼は浅草の夜に繰り出していったのか?

啄木

 あと30分ぐらいで日が暮れる。師走が近づくと日が落ちるのがめっきり早くなる。まもなく浅草の夜が始まる。さて、まずはどこの店に入ろうか。6時になったら国際通りのバー・フラミンゴが開くはずだ。そこでキース・ジャレットでも聞きながら、冬に相応しいカクテルでも飲むというのはどうだろう。……国際通りを歩く人の数がしだいに多くなってきた。

「浅草の夜のにぎはひに まぎれ入り まぎれ出で来しさびしき心」

all photos taken by Dallmeyer 1inch f1.8 + E-PM1




 ずんずんと、駅から続く一本道を私は歩き続ける。この道は、数十年も昔に毎日通った道だ。大通りに軒を連ねる店のほとんどが様変わりしてしまった。でも、狭い路地に入り込むと当時の雰囲気がまだ至るところに残っている。そこに清澄な秋の日射しが降り注いでいる。

 この日射しを浴びていると、私はどんなことだって思い出せそうになる。数十年ぐらいはあっという間に行き来できそうになる。それどころか、ぐるっと回転して、自分の人生はひとつ前の人の人生になり、ぐるぐる、そのまたひとつ前の人の人生になる。何度でも、ぐるぐるぐるぐる、十回、二十回、三十回。いくらだって繰り返せる。人なんかどれだけ変わっても、この世界自体はなにも変わりはしない。世界の終わりはなかなか訪れはしない。あるいは、ほんとうの世界は、とうの昔にすでに終わってしまっているのかもしれない。

 秋の日射しを全身に浴びていると、私はいつだってそんな気分になる。すれ違う人々の顔が白くハレーションを起こしている。みんな、のっぺらぼうみたいに見えてくる。懐しさみたいな感情が時折湧き上がってきたとしても、それはカラカラに乾き切っている。

清澄

Summilux 50mm f1.4 ASPH. + M10-P



 日本の映画監督の中で好きなのは、やはり行定勲監督。あのローキーで暗緑色がかった色味、光の滲む映像は病みつきになる。彼の手に掛かると、どんなロケ地でもまるで演劇の舞台のセットの如くメタファーに満ちた趣になる。三島由紀夫の「春の雪」、雫井脩介の「クローズド・ノート」、中谷まゆみの「今度は愛妻家」が特に印象に残っている。最近だと、去年の今頃映画化された島本理生の「ナラタージュ」の映像が美しかった。

 先日、久しぶりに原作の「ナラタージュ」を読み返してみた。もう十年以上前の作品である。葉山先生と工藤泉。ふたりの最後の合瀬の、あのあまりにも切ない性描写、みごとな筆致である。こんな文章を20歳そこそこで書けるなんて、やはり彼女は天才なのだろう。そして、この「ナラタージュ」、原作も映画も雨の描写が象徴的である。

 雨の午後は昼間と夕方の境界線が曖昧で、窓にはただ全体的に暗くなっていく一枚だけの景色が張り付いていた。

島本理生『ナラタージュ』(角川書店、2005年)


 ナラタージュ。ナレーションとモンタージュの造語。あるいは、過去を再現する手法。

 最近、ナラティブとかナレーション、そしてこのナラタージュといった言葉の響きがとても気になる。そこにこそ「物語」の一番大切なエッセンスが「滲んで」いるようで。


海を見ていた午後

Summicron 35mm f2 2nd + MM


 海を見ていた午後。


morito

Super-Angulon 21mm f4 + MM


 森戸大明神。


湯神

Summar 5cm f2 L + Ⅲa + Acros100


 湯神。




 夜中に目が覚める。部屋の中の闇の色で今が何時頃なのかがわかる。ほとんど間違えることはない。誤差は10分程度だ。

 今は、まだ3時前だろう。案の定、枕元の時計の針は2時50分を指している。寝入ってからまだ2時間ほどしか経っていない。上出来だと思う。2時間も眠れれば上出来。これを2セット、できれば3セット重ねられたらそれでいい。ノンストップで6時間も7時間も眠り続けるなんて、もう何年も経験していない。

 2〜3時間のショートスリープの間、必ず夢を見る。随分とハッキリとした夢を。書き付けておけばりっぱな夢日記になるだろう。医者に相談したら、たぶんノンレム睡眠の時間が少ないんでしょうね、と言われた。

 眠ろう。あとワンセット眠ろう。スマホでメールをチェックするなんてもってのほか。読書灯を付けて小説の続きを読むのも控えよう。このまま、闇の中にじっと身を横たえたまま、あと2時間か3時間。眼球がぐるぐる動いているレム睡眠で構わない。体を弛緩させられる眠りであればなんだって構わない。

 ほどなく夢の続きが始まった。最近は寝入らなくとも、こうやって体を休めて静かに目を閉じているだけで夢が勝手にジェネレートされていく。脳も体もまだ明らかに覚醒しているのに。それが証拠に、左手の人差し指で鼻の頭を掻くことが出来る。右足を立て膝付くことも出来る。体中の随意筋を自由に動かすことが出来る。なのに、頭の中ではひとつのイメージが形になり、自由に動き始め語り始める。荒唐無稽な物語がジェネレートされていき、その上映を覚醒したまま眺めることが出来る。

 夢と現実の境目がなくなっていく。医者には、睡眠中も脳があまり休んでいないんですよ、と言われた。だから、いろんなことが修復できない。リセットできない。その結果、頭の中はノイズだらけになる。そしてエラーが起きる。

dog

Summilux 50mm f1.4 ASPH. + M10-P


boat

Summilux 35mm f1.4 2nd + M10-P


 boat.


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