naotoiwa's essays and photos

2018年08月

fireworks

FE 55mm f1.8 + α7s


 fireworks night.


mikan

FE 55mm f1.8 + α7s


 みかん。




 猛暑日が続く。こんな酷暑の東京の日々、永井荷風先生ならどんなふうに過ごしていたのだろうか。酷暑なら酷暑なりの風情のある過ごし方をしていたに相違ない、と思って「夏の町」を読んでみた。

 いつぞや柳橋の裏路地の二階に真夏の日盛りを過した事があった。その時分知っていたこの家の女を誘って何処か凉しい処へ遊びに行くつもりで立寄ったのであるが、窓外の物干台へ照付ける日の光の眩さに辟易して、とにかく夕風の立つまでとそのまま引止められてしまったのだ。物干には音羽屋格子や水玉や麻の葉つなぎなど、昔からなる流行の浴衣が新形と相交って幾枚となく川風に飜っている。其処から窓の方へ下る踏板の上には花の萎れた朝顔や石菖やその他の植木鉢が、硝子の金魚鉢と共に置かれてある。八畳ほどの座敷はすっかり渋紙が敷いてあって、押入のない一方の壁には立派な箪笥が順序よく引手のカンを并べ、路地の方へ向いた表の窓際には四、五台の化粧鏡が据えられてあった。折々吹く風がバタリと窓の簾を動すと、その間から狭い路地を隔てて向側の家の同じような二階の櫺子窓が見える。鏡台の数だけ女も四、五人ほど、いずれも浴衣に細帯したままごろごろ寝転んでいた。暑い暑いといいながら二人三人と猫の子のようにくッつき合って、一人でおとなしく黙っているものに戯いかける。揚句の果に誰かが「髪へ触っちゃ厭だっていうのに。」と癇癪声を張り上げるが口喧嘩にならぬ先に窓下を通る蜜豆屋の呼び声に紛らされて、一人が立って慌ただしく呼止める、一人が柱にもたれて爪弾の三味線に他の一人を呼びかけて、「おやどうするんだっけ。二から這入るんだッけね。」と訊く。坐るかと思うと寝転ぶ。寝転ぶかと思うと立つ。其処には舟底枕がひっくり返っている。其処には貸本の小説や稽古本が投出してある。寵愛の小猫が鈴を鳴しながら梯子段を上って来るので、皆が落ちていた誰かの赤いしごきを振って戯らす。自分は唯黙って皆のなす様を見ていた。浴衣一枚の事で、いろいろの艶しい身の投げ態をした若い女たちの身体の線が如何にも柔く豊かに見えるのが、自分をして丁度、宮殿の敷瓦の上に集う土耳其美人の群を描いたオリヤンタリストの油絵に対するような、あるいはまた歌麿の浮世絵から味うような甘い優しい情趣に酔わせるからであった。自分は左右の窓一面に輝くすさまじい日の光、物干台に飜る浴衣の白さの間に、寝転んで下から見上げると、いかにも高くいかにも能く澄んだ真夏の真昼の青空の色をも、今だに忘れず記憶している。

永井荷風『夏の町』より


 さすがである。

 平成30年の八月も、窓一面にはすさまじい日の光である。とにかく夕風の立つまで待つことにしよう。

chien

FE 55mm f1.8 + α7s


 犬の気持は、たいがいわかる。




 改めて、『心の分析』を勁草書房版で読み返してみる。


 世界は五分前に、正確にその時そうあった通りに、まったく実在しない過去を「想起する」全住民とともに、突然存在し始めたという仮説に、いかなる論理的不可能性もない。異なった時に起こる出来事の間には論理的に必然的な結合はない。故に、いま起こっている、あるいは、未来に起こるであろう、いかなることも、世界が五分前に始まったという仮説を反証することはできない。よって、過去の知識とよばれる出来事は、過去とは論理的に独立である。

B・ラッセル/竹尾治一郎訳『心の分析』(1993、勁草書房)、p.188

B&W

Elmar 5cm f3.5 + GXR


 B&W.




 久しぶりに吉祥寺南口の(というか井の頭公園入口近くの)武蔵野珈琲店に行く。古い雑居ビルの2階にある。ドリップ珈琲がうまいのだ。他にも、カプチーノは言うに及ばず、クリーム系のトッピングメニューもたくさんある。ウィーンのカフェ気分を味わえる。ここは、又吉直樹さんが通った店。「火花」にも登場するということで、最近は若いひともいっぱい来るが、昔からの常連客も多い。本日もカウンターに座っていた方は「もう36年間、通い続けてるよ」と言っていた(のを小耳に挟んだ)。Since 1982年。
 
 80年代前半、南口の丸井の脇を通って井の頭公園に下っていく七井橋通りにあったカフェは、この武蔵野珈琲店と「くれーぷりー」。店名はたしかにそれだったと記憶しているが、この店でクレープを食べた記憶はない。井の頭公園の野良猫がいつも自在に店内に出入りしていた。その後、改修されてドナテロウズという店になり、今では建物自体が跡形もなく取り壊され「いせや」になっている。

 当時、頭の中で水腫のように膨張し続けていたさまざまな想念を、ああでもないこうでもないとノオトに書き綴っていたのは「くれーぷりー」だったり、この武蔵野珈琲店だったり、あるいは南口地下の「ストーン」だった。でも、そんな過去がほんとうにあったのかどうかなんて誰にもわからない。誰にも証明することは出来ない。すべては現在の記憶の中にあるだけのことに過ぎないのではないか。……ラッセルにかぶれて『哲学入門』や『心の分析』を一心不乱に読んでいたのも、ここ武蔵野珈琲店だったか「くれーぷりー」だったか。

turtle

Elmar 5cm f3.5 L + Nooky + GXR




 小説家の「住野よる」と言えば、とにもかくにも『君の脾臓をたべたい』が有名だが、(映画化された際の浜辺美波の演技はスバラシかった!)小説としてはこちらの方が好きである。『また、同じ夢を見ていた』。文庫本が出たので再読していたのだが、台風の夜に鞄の中に入れて持ち運んでいたためか、こんなになってしまった。(涙)

住野よる

 とても平易な文章で書かれているが、これはある意味、哲学書だと思う。

 「幸せとは、自分が嬉しく感じたり楽しく感じたり、大切な人を大事にしたり、自分のことを大事にしたり、そういった行動や言葉を、自分の意思で選べることです。」

 といった、人生の指南書でありつつ、この世界の認識の仕方についての、これは正当な哲学書でもあるのではないか。読み終えたあと、バートランド・ラッセルの「世界五分前仮説」のことを思い出してしまった。タイトルのせいかもしれない。『また、同じ夢を見ていた』。

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