naotoiwa's essays and photos

2018年08月



 秋が近づいてくると、無性に八木重吉の詩が読みたくなる。「秋の瞳」だ。有名なのは、例の「うつくしいもの」という詩だろう。

 わたしみづからのなかでもいい
 わたしの外の せかいでも いい
 どこにか 「ほんとうに 美しいもの」は ないのか
 それが 敵であつても かまわない
 及びがたくても よい
 ただ 在るといふことが 分りさへすれば、
 ああ ひさしくも これを追ふにつかれたこころ


 そうなのだ。高い秋の空を見上げる頃になると、「ああ ひさしくも これを追ふにつかれたこころ」という想いがしわじわと押し寄せてくる。まだ猛暑日が続いているようだが、九月はもうすぐ。あっという間に「秋」はやってくる。

 そして、もうひとつ。この「うつくしいもの」に負けず劣らず好きなのが、「雲」という詩だ。

 くものある日 くもは かなしい くものない日 そらは さびしい

秋

GR 18.3mm f2.8 of GRⅡ


 薄の穂がさまになる季節になってきた。


 

swimming

GR 18.3mm f2.8 of GRⅡ


 swimming.




 犬の気持はたいがいわかる、なんて言っておきながら、先日、彼女をひどい目に遭わせてしまった。花火大会に連れて行ったのである。人混みをかき分けて、打ち上げのすぐそばに場所を確保。で、いよいよ打ち上げ時刻となりカウントダウンが始まった。10,9,8,7,6,5,4,3,2,1。

 第一発目が打ち上がり夜空で破裂した瞬間、彼女は猛然と暴れ出した。抱いていた家人の腕がひっかき傷でミミズ腫れになるくらいに。そんな状況になるとは予想だにせず、すぐ近くでカメラのシャッターを切っていた自分が情けない。家人の腕から引き取って抱き抱えると、彼女は今まで聞いたことのないような悲鳴を上げていた。肉食動物に捕獲され首根っこにトドメの牙を刺された時のような、まさに断末魔の悲鳴。彼女が腕から飛び出しそうになるのを必死で取り押さえる。緊急事態である。急いで会場を抜け出さねば。でも、人混みに阻まれてなかなか動けない。彼女を抱いたまま脇道を懸命に走る。

 こうして10分間、走りに走ってようやく五百メートルぐらい遠ざかった。それでも、打ち上がる度に彼女は悲鳴を上げ続けた。

 普段、犬の嗅覚や聴覚は人間とは比べものにならないくらいすごいんだからね、なんて知ったかぶりしておきながら、間近で見る花火大会の音とあのズシンとくるボディソニックが、彼女にどう響くのかがどうして想像できなかったのだろう。それは、我々が感じる10倍も20倍もの強さで彼女の鼓膜と体を襲うのだ。……犬の環世界のことなんて、実はぜんぜんわかってなかった。ほんとうにごめんなさい、ノイ。心の傷になってないといいのだけれど。

neu

FE 55mm f1.8 + α7s

dawn

FE 55mm f1.8 + α7s


 dawn.


飛び出し注意

GR 18.3mm f2.8 of GR Ⅱ


 飛び出し注意。




 その町は川沿いの古い城下町で、到着してすぐに築四百年を超えるお城の天守閣に登ってみることにした。階段の段差があまりに大きくて、下りで膝が笑い出す。いにしえの武将たちはあの重い甲冑を身に纏ったままこの急な階段を上り下りしたのか。苦労して天守まで登ったはいいが、雨が近づいているようで空はどんより曇って川の向こうの見晴らしは望めない。眼下にお稲荷様と町の鎮守様が建っていた。そこから南に城下町が広がっているのがわかる。

 翌朝、まだ日射しが暑くならないうちに町を歩いてみることにした。まずもって妙なことに気がついた。せいぜいが五百メートルぐらいの道筋に写真館が何軒も並んでいるのだ。今時の観光客はみんなスマホで撮影してインスタグラムにアップするだけで、わざわざ写真館で記念写真なんか撮らないだろう。では、町の人たちが写真館好きなのか。今も人生の節目節目にホリゾントの前で記念写真を撮る習慣があるのだろうか。

 そこは不思議な町並みだった。古民家を改装した洒落たカフェがあるかと思えば、路地の奥は樹齢四百年のクスノキの巨木がそびえ立つお寺の境内に繋がっている。足の不自由な老婆が杖をついて亀のような足取りで歩いているかと思えば、西洋風の彫りの深い顔をした女がハスキー犬を連れて颯爽とランニングをしている。広大な小学校の校庭にはひとっ子ひとりいない。からくり人形館と称した建物の前にばかり何人もの人が集まって、全員がうまそうに煙草を喫んでいる。彼ら彼女らの表情があまりにいいので写真を撮らせてくれないかと頼んでみた。ところが、いざシャッターチャンスというところで、ローライフレックスの巻き上げが突然効かなくなった。12枚撮りの8枚目からうんともすんとも動かなくなる。写したフリをしてお城の麓に戻ることにする。

 お稲荷様の敷地に赤い鳥居が幾つも連なっている。その隣に町の鎮守様。境内に何本かの桜の植樹。脇には石碑が建っていて、初老記念、と書かれている。初老記念? ……いつの間にか背後から声がした。

 「初老とは四十二歳の男の厄年のことです。満四十歳。昔の人にとって四十歳はすでに初老。人生もそろそろ終わりに近づいてきたというわけで、厄年で命を落とす人も少なからずいたのです」四十歳で初老ならば、五十を過ぎた今の自分はなんなのだろう。じゃあ、女の人は、と私が尋ねようとすると、声の主は「三月三日に女の人は厄除けをします。女の人は男以上に業が深いですからね」

 ここにもクスノキの大木があって、こちらは樹齢六百五十年だと書いてある。オレンジ色の花を咲かせたノウゼンカズラがその太い幹に巻き付いている。一呼吸置いてから、私はゆっくり後ろを振り返り、先程からの声の主を探した。が、そこには誰の姿もなく蝉の鳴き声ばかりが、かしましく聞こえるばかり。

凌霄花

GR 18.3mm f2.8 of GRⅡ

案山子

GR 18.3mm f2.8 of GRⅡ


 案山子。


夏山

GR 18.3mm f2.8 of GRⅡ


 夏山。




 文庫になったので、遅ればせながら内館牧子さんの「終わった人」を読んだ。

 五十代後半の我々世代にとって、ほんとうに身につまされる小説である。あと数年で定年を迎える知人たちも、今、みんなとても悩んでいる。スッパリ六十歳で辞めるか、給料半額以下になっても五年間の定年延長を選択するか。あるいは、子会社に転籍して数年間は給料据え置きを狙うか。

 自分もサラリーマンを辞める際には苦悶する日々が続いたが、若い頃から、二者択一で悩んだときにはいつも次のような価値判断で岐路を選択して来たように思う。

 それは、リスクはあろうとも、現状維持で待つよりは動いた方がゼッタイにいい、ということ。そして、常に新しいことにチャレンジする方に賭けた方がいい、ということ。「変わる」ことを積極的に選択すべし。かつてヴィスコンティ監督の映画の中で「変わらないために変わる」なんて台詞があったけれど、そんな貴族の矜持めいたものはさっさと捨てて、あるいは、心の奥底にひた隠しに隠して、ストレートに「変わるために変わる」道を選んだ方がいい、ということ。

 でも。改めて思い返してみると、自分の場合は「手に職」とまではいかないまでも、それでも専門的な技量や知識・人脈が得られる職場環境に恵まれていたからよかったものの、ずっと営業畑や管理畑に所属していた人(そして、彼らこそが会社の屋台骨を支えてきてくれたのだ)にとっては、五十代後半からの転職や起業はかなり大きなリスクを伴う。同等の給料を支払ってくれる会社などまず見つからない。大企業のマネジメント職というのは、その後、なんともツブシが効かない人種になってしまうのである。メチャクチャ優秀なのに、ただ単に派閥争いに負けたというだけで「終わり」になる。自分が直接闘って敗れたのならまだしも、自分の上司が敗れたというだけで。この本の中にも出てくるが、サラリーマンとは他人にカードを握られた人生なのだ。

 小説「終わった人」の主人公もまさしくそれで、東大法学部卒メガバンク入行、エリート街道まっしぐら、役員手前まで行ったものの最後は子会社に出向になり定年を迎える。仕事で「成仏」できなかった反動からか、新興のIT企業の顧問を引き受け、その後、巨額の個人資産を失うはめになる。長年連れ添った妻に三行半を突きつけられるが、それでも彼は以前よりも晴れ晴れとしている印象を受ける。無為な年金生活を送るより、数千万スッてでも、動かないよりは動いた方がマシ、ということか。

 それにしても、内舘牧子さんはどうしてこんなにも男性心理が手に取るようにわかるのであろうか。さすがである。最後の方で、娘が離婚危機の両親に向かって(特に母親に)吐く台詞がメチャクチャ格好良かった。

 あと、この小説には石川啄木の詩が通底している。主人公が盛岡出身なのだ。啄木ファンとしても十分楽しめる小説である。

 映画も上映されているみたいだし、見てみよう。主人公の舘ひろしが恋心を抱く久里さん役は広末涼子。


near sighted

FE 55mm f1.8 + α7s


 fireworks with near sighted eyes.


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