naotoiwa's essays and photos

2018年05月



 NHKの朝ドラ「半分、青い。」は岐阜県が舞台である。脚本家の北川悦吏子さんのふるさと。番組中にたくさんの岐阜弁(東濃弁?)が飛び交っている。私も岐阜県の出身なので理解は出来るが、岐阜弁というのはけっこう特殊なのだ。例えば、こんなふうに。……昔、よく母親に「はよ、まわしせんと」となどと言われた。「まわし」とは「準備、支度」の意味である。標準語的にはさっぱり意味がわからぬ。

 幼い頃から私はこの地方の言葉があまり好きではなかった。おとなたちが話している言葉のイントネーションがイヤだったのだ。大仰でなにやらがさつで。もっと柔らかなニュアンスの言葉を話す国で暮らしたいと思っていた。でも、自分の出自を変えることはできない。

 そんな自分の生まれた場所(岐阜県の大垣市である)に初めて誇りを持ったのは本郷の菊富士ホテルのことを知った時であろうか。菊富士ホテル。本郷の菊坂にあった西洋式のホテル。大正から昭和にかけて、文人たちのコミュニティとして有名だった高級下宿。今で言えばコーポラティブハウスといったところか。尾崎士郎、宇野浩二、竹久夢二、谷崎潤一郎、広津和郎、直木三十五、そして坂口安吾といった名だたる文士たちがみんな菊富士ホテルの住人だったのだ。で、この菊富士ホテルをつくったのが岐阜県大垣市平村(現在の安八郡)出身の羽根田幸之助なのである。彼は日本の近代文学の偉大なパトロンだったのだ。

 ホテルは空襲で焼けて、現在では跡地に石碑が建っているだけだが、かつてここに富士山が望める三階建ての、そしててっぺんには坂口安吾が愛用した塔の部屋のあるホテルが建っていたのだと思うと感慨深い。近藤富枝さんが書いた「本郷菊富士ホテル」を片手に界隈を散策してみると、女子美術大学の前身の建物や宇野千代が働いていたレストランが近くにあったこともわかる。

ホテル跡


本郷菊富士ホテル


 岐阜県大垣市出身であることが誇りに思えるひとときである。




 大学が近いこともあって、小金井公園の中にある「江戸東京たてもの園」はたびたび訪れる。大好きな前川國男邸や常盤台写真場がある。でも、時にそうしたモダン建築よりも心引かれるのが、関東大震災の後の復興建築として名もなき設計者やデザイナーたちがつくった看板建築と言われる建物群である。
 看板建築。正面のファサード部分だけが銅板やタイル、モルタルで覆われている。軒をなくしたマンサード屋根。しかし、奥行きは杉板等を多用する従来の木造建築物である。ここに住むのは個人商店を営む人たちで、ファサード部分が店舗で奥は個人用の住宅である。
 その代表的な建物が東ゾーンにいくつか復元されている。現在は展示スペースで「看板建築展」も行われていて、今回、改めてじっくりと看板建築について勉強してみたのだが、これがなかなかに奥が深い。この看板建築に先立つものとして、震災直後のバラックを美しく装飾するための「バラック装飾社」というのがあって、そのコンセプトが「バラックを美しくするための仕事一切」とのこと。その中心となって活躍したのが建築家であり民俗学研究者の今和次郎氏。「考現学」を提唱した人だ。

バラック

 バラック装飾といい、看板建築といい、一見するとその空間には一貫性がなくインスタレーション発想からはほど遠いものだが、この敢えての「デコレーション感覚」が今から思うと逆に新鮮である。ダダイズムと言えばいいのかポストモダンと言えばいいのか。ちょいと胸騒ぎを覚えてしまった。。

watermelon

P.Angenieux 35mm f2.5 + α7s


 watermelon.


このページのトップヘ