あと一時間もすれば雨になるだろう。窓から入ってくる空気が潤んでいる。頭の中も潤んでいる。晴れの日が続くと私は偏頭痛に悩まされる。ふつうは反対でしょ、とひとは云う。ふつうのひとは低気圧が近づいて来たときに頭が痛くなるわけで。
私は今、窓辺に置いた小さな書き物机に頬杖をついて窓の外を眺めている。窓の外は緑で溢れている。春の花々はみんな散ってしまって今は緑一色だ。中途半端な色の花なんかなくていい。緑だけでいい。その緑色が湿気を含んでゆっくりと膨張し始めている。書き物机は飴色の木製で、同じ木製の床や壁からは古い家特有の甘ったるい匂いがする。机の左端にくすんだペパーミント色のランプが置いてある。明かりはまだ付いてはいない。
この場所で、私は雨が降り出すのをぼんやりと待っている。過去のことを思い出すわけでもなく、ましてや未来のことを考えるわけでもなく。かといって今のこの一瞬を真剣に考えているわけでもない。ただぼんやりとここに或る、だけ。できることならこの場所で、この古びた家の中で、私はこれからもずっと暮らしていけたらと思っている。私は年を取るだろう。でも、私は鏡なんか見ない。だからいくら容姿が衰えようが構やしない。私の目に世界がずっと映っていてくれさえすればそれでいい。世界が存在するというのはそういうことだ。世界はずっと変わりはしない。
あと一時間もすれば雨が降り出すだろう。日も暮れるだろう。そうしたら、私は窓を閉めランプの明かりを付けて、読みかけの本の続きを読むだろう。その本はひとつひとつのフレーズに燦めきがあって、それらが自動記述みたいに連なっていく。
たぶん今夜こそは、けっこうな量の雨が降るかもしれない。家の前の道はひどく泥濘んでしまうかもしれない。明日から、もうどこにも行けなくなってしまうかもしれない。……それで構やしない。雨が止んで、また雨が降り出すのを待って……その繰り返しはもうおしまい。これから降り出す雨が、この家も外の緑も時間も何もかも溶かしてくれるのなら、それで構やしない。