naotoiwa's essays and photos

2018年04月

路地

CZ Jena Flektogon 20mm f4 + α7s


 路地裏。




 作家が書く小説や随筆は名作コピーの宝庫だと思う。その中でも、なんといっても秀逸なのは太宰治。『斜陽』に出てくる例の、

 恋、と書いたら、あと、書けなくなった。

 句読点の打ち方といい、これはもう絶品である。でも、これと双璧なのが、

 早く『昔』になれば好い。

 普通の言葉を使いつつ組み合わせの意外性でドキリとさせる。コピーライティングの王道。そして、太宰に勝るとも劣らない情緒を醸し出している。

 書いたのは竹久夢二。大正ロマンの有名な画家であるが、詩人でもある。夢二画集には春夏秋冬の4つがあるが、その中の「夏の巻」にその言葉は綴られている。

 僕は、淡暗い蔵の二階で、白縫物語や枕草子に耽つて、平安朝のみやびやかな宮庭生活や、春の夜の夢のよふな、江戸時代の幸福な青年少女を夢みてゐたのだ。あゝ、早く『昔』になれば好いと思つた。
 
竹下夢二 『夢二画集 夏の巻』より


 亡くなられた作家・演出家の久世光彦さんが夢二が大好きでこの言葉をそのままタイトルにした小説を書いているが、改めて、

 あゝ、早く『昔』になれば好いと思つた。

 これ、ほんとうに一番ゼイタクな心情だと思う。早く未来なんか来て欲しくもなんともないけれど、早く昔が来てくれたら。……これほど胸ときめく言葉は他にないのではないだろうか。改めて、春の夜にそんなことを思う。

 



 桜も見納め。でもこれからが春爛漫。海棠、花桃、連翹、躑躅と春の花が咲き誇る。春はいとし。でも、春は、、

春は修羅

GR 18.3mm f2.8 of GRⅡ


 春霞の景色を眺めていると、取り返しの付かないことばかりを思い出す。けれど、その過去は本当にたったひとつの過去なのか。

 宮沢賢治の有名な「春と修羅」。

 わたくしといふ現象は
 仮定された有機交流電燈の
 ひとつの青い照明です
 (あらゆる透明な幽霊の複合体)
 風景やみんなといつしよに
 せはしくせはしく明滅しながら
 いかにもたしかにともりつづける
 因果交流電燈の
 ひとつの青い照明です
 (ひかりはたもち その電燈は失はれ)

 これらは二十二箇月の 
 過去とかんずる方角から
 紙と鉱質インクをつらね 
 (すべてわたくしと明滅し みんなが同時に感ずるもの)
 ここまでたもちつゞけられた
 かげとひかりのひとくさりづつ
 そのとほりの心象スケツチです

 昔からずっと、この「過去とかんずる方角」というフレーズが気になってしかたがない。過去などというものは無限にある時間の流れの中の、たんなるひとつの方角に過ぎない。……そんなふうに受け取れる。

 でも、この方角がやっかいなのである。年をとると、自分自身はまだまだ何も変わらぬと思い込めていても、自分のまわりの人々が確実に、ある人は死に、ある人は衰え、また別のある人は心を隔てて離れてゆく。そうした彼ら彼女らの、かつての想いを掬い取ろうと思ってみてももはや手遅れになる。それをまざまざと思い知らされるのが春である。そうして改めて思うのだ。この世界の中で「わたくしといふ現象」はいったいなんなのかと。なんだったのかと。

 春と修羅。そして、春は修羅。



 「銀河鉄道の父」を読んでから改めて宮沢賢治についていろいろ知りたくなって、畑山博さんが書いた「教師 宮沢賢治のしごと」をKINDLE版で読んだ。

教師宮沢賢治

 この本の中で、畑山さんは、かつて農学校での宮沢賢治の教え子だったひと数人から取材して、教師宮沢賢治のいくつかの授業を再現しているのだが、

 学校の教師という仕事は、それをほんとうに誠実に心を賭けてやったら、音楽とか絵とかいうような芸術より、もっとすばらしい芸術行為になるのだと、私は思っています。
畑山博著 「教師 宮沢賢治のしごと」より


 と書いている。これを読んで目が覚める思いがした。残念ながら、ひとにものを教える行為をここまで考えきったことは今までなかったと自分を恥じた。来週からまた新学期の授業が始まる。この文章を肝に銘じて臨みたいと思う。

 さて、宮沢賢治の童話、詩で好きなものはたくさんあるが、教師をしていた頃の短編小説というのかエッセイと言えばいいのか、「イギリス海岸」を再読してみた。

 もっと談してゐるうちに私はすっかりきまり悪くなってしまひました。なぜなら誰でも自分だけは賢こく、人のしてゐることは馬鹿げて見えるものですが、その日そのイギリス海岸で、私はつくづくそんな考のいけないことを感じました。からだを刺されるやうにさへ思ひました。はだかになって、生徒といっしょに白い岩の上に立ってゐましたが、まるで太陽の白い光に責められるやうに思ひました。
宮沢賢治著 「イギリス海岸」より

 花巻のイギリス海岸には二十数年前に行ったきりである。



 直木賞を受賞した門井慶喜さんの「銀河鉄道の父」、遅ればせながら読了。

銀河鉄道

 かの宮沢賢治は、なるほど、こんな家庭環境で育ったのかと合点がいったり、あるいは彼の意外な一面を見たり。そして、政次郎が娘と息子の死に立ち会う時、「これから、おまえの遺言を書き取る。言い置くことがあるなら言いなさい」……親より先に旅立つ子供に対してこう告げる父親の心情を思うと涙が止まらなくなった。

 全編興味深く読ませていただいた。そして、所々で門井さんご自身の人生哲学的な示唆がキリリと光っていた。例えば、賢治が質屋の跡取りとして客の相手をするのが苦手で、部屋でひとり本を黙読している場面での描写。

 何しろ相手は活字である。けっして怒らないし、どなりちらさないし、嘘をつかないし、ごまかさないし、こっちを混乱させるために故意にわけのわからないことを言ったりしない。こっちから一方的に中断したとしても抗議しない。或る意味、そこにあるには、主人と使用人の関係なのだ。そういう対話にあんまり慣れすぎてしまったら、人間というのは、こんどは生身の人との対話が苦痛になるのではないか。

 人と人との対話。……それはコミュニケーションの華である。相手にユーモアのセンスがあればこれほど楽しい時間はない。でも、時にそれは、嘘と皮肉と悪意に満ちたものにもなる。なぜならば、人はけっきょくのところ、自分が今まさに抱いている感情をベースにしたコミュニケーションしかできないからだ。さすれば、対話のコンテンツは相対性を失い、俯瞰でものごとが見れなくなる。「相手の気持ちになって」とはよく言われることだが、それよりもなによりも「自分の個人的な感情からニュートラルになって」対話することが、我々人間にはいかに困難であることか。

 そうしたコミュニケーションが続いて、心がホトホト疲れ切った時、我々は「本」の世界の中に逃げ込む。人間嫌いに陥りそうになる自分を、今まで何十回何百回、たくさんの「活字」たちが網膜の中で慰めてくれたことだろう。

花桃

CZ Flektogon 35mm f2.4 + α7s


 花桃。


rabbit&mouse

Sonnar 135mm f4 of Tele Rolleiflex + Pro160


 rabbit&mouse.


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