naotoiwa's essays and photos

2018年02月

white out

GR 18.3mm f2.8 of GRⅡ


 whiteout


末吉

Jupiter-8 50mm f2 L + Zorki-4K + Fuji400


 末吉。




 若い頃からオールドカメラ&レンズフリークである。ライカ、ローライ、ハッセルの御三家を中心に、20年ぐらいかけてコツコツ買い集めた。今に比べればまだまだリーゾナブルな金額だったし。そして、次のお目当てが欲しくなれば、手持ちのいくつかを売りに出し、の繰り返し。株と同じ。

 でも、ここ10年ぐらいはその体力も財力(というか投機力)もないので、新しく買うものといえば、安価な1万円以下のロシア製や旧東ドイツ製、国産のものに限られる。

 で、改めてゾルキーなのである。Zorki。ロシアのライカコピーカメラ。このタイプは1977年製。レンジファインダーの最終形。ライカのバルナックとM型のいいとこ取りをしている。シャッターダイヤルはM型同様、高速・低速一体型。フィルム装填も簡単。でも、M型からは省略されてしまった視度調整ダイヤルは残されている。そして、ファインダーの倍率が等倍なのである。M3みたいに。

zorki

 ロシア製は個体差が、とはよく言われることだが、このモデルなら精度もしっかりしている。巻き上げのコマ間も安定しているし、シャッターも低速から高速までしっかり動く。造りだって堅牢。きれいな美品でも1万円を超えることはない。50ミリの標準レンズを付けても2万円以下。ジュピター50ミリはコンタックスのゾナーコピーなので写りも秀逸。

 ゾルキー。「鋭い視線」という意味だそうだ。昔、ドイツとソ連の二重スパイにゾルゲという人物がいたが、ゾルゲもまたゾルキーを使っていたのだろうか?



 80年代半ば、広告会社に入社したての頃、この本を手にした。

分衆

 関沢英彦先生が中心となって書かれた博報堂生活総合研究所の「分衆の誕生」。

 広告黄金期と言われた80年代において、すでに大量消費社会は終焉を迎えつつあったわけで、これからの時代の広告コミュニケーションはいったいどのように変わっていくのか、ワクワクしながら読んだ記憶がある。

 あれから30年余年。今は「分衆」どころか「分人」の時代である。平野啓一郎さんは数年前に「私とは何か」を書いた。サブタイトルは、「個人」から「分人」へ、である。 individual ならぬ dividual。自分の中のさまざまな自分。それは相手によって常に更新され続ける。個人のアイデンティティは決してひとつではない。相手に応じて変化し続けていくことこそが「本当の自分」。

 このアイデンティティの相対性についてはまったく持ってその通りだと思うが、そもそもの最初から(自分の感覚世界が出来たその時から)(先天的に)複数の自分は存在しているのではないだろうか。

 いくつもの異名を使い分けた詩人フェルナンド・ペソアのことを折に触れ思い出す。

sunglasses

Xenotar 80mm f2.8 of Rolleiflex 2.8E + Acros100


 sunglasses.


X

Xenotar 80mm f2.8 of Rolleiflex 2.8E + Acros100


 X.




 改札を抜け3番線のプラットホウムに降り立ってみたものの、列車が到着するまでにはまだ10分ぐらいあるようだ。雪が降り続いている。50メートル先が見えない。改札の案内表示に「今の気温:ー10度」と出ていた。ホウムにこじんまりとつくられた待合室はすでに満員である。

 「次の3番線下り列車は3両編成で参ります。足もと1番から9番までの番号表示のところでお待ちください」とアナウンスが聞こえているが、積雪で番号表示を確認することはできない。おそらくは進行方向に向かって先端あたりに停車するのだろうと勝手に推測し、ダウンジャケットのフードを被り直しマフラーをぐるぐる巻きにして、待合室のあるエリアを通り過ぎていく。

 ふと雪の匂いがした。ツンとして、でもどこか懐かしいような。雪に覆われた地面の奥底の、甘い土の匂いがほんの少しだけ混ざっているような。

プラットホウム

 ホウムの先端に、女の人が立っていた。ひとりでずっとそこで、列車が到着するのを待っている。近づいていくと次第に彼女の姿のディテイルが見えてくる。背中まで伸びた長い髪。真っ赤な手袋をしている。紺色のダッフルコートを着ている。そして、ダッフルコートの脇に、おそらくはその中にヴァイオリンが隠されているだろうケースを抱えている。音楽教室の練習帰りだろうか。

 彼女の隣に並ぶ。こっそりと横顔をうかがう。真っ白な肌、寒さのせいで頬に赤みが差している。そして、大きく前を見据えた瞳。眉のところで切りそろえた前髪。

 イヤホンを耳に付けている。そこから少し音漏れがしている。クラシック音楽。たぶんシューベルト。弦楽四重奏。転調をめまぐるしく繰り返している。

 と、その時、突風が我々の顔をめがけて襲いかかってきた。彼女の長い髪がメドューサのように束になってグルグルと宙に舞う。頬の赤みと口紅の赤、そして手袋の赤がバラバラの断片になる。その背景で、雪片が青白くキラキラと光っている。

雪化粧

GR 18.3mm f2.8 of GRⅡ


 雪化粧。




 ユルスナールが好きである。ご多分に漏れず、須賀敦子さんの「ユルスナールの靴」を読んでこの作家のことを知った。それから「ハドリアヌス帝の回想」「黒の過程」「なにが?永遠が」と、彼女の作品を続けざまに読んだ。初期の頃の「東方綺譚」も素晴らしい。例えば、「東方綺譚」の中の「老絵師の行方」という短編。

東方綺譚

 沈黙が壁であり言葉がそれをいろどる色彩であるかのように、語ったのだ。

 まさに、この一節が言い表しているような絵画的な作品である。

 幼い頃から博学の父親に連れられて旅を続けたユルスナール。晩年も著作の傍ら旅を愛したという。

 一つの町にとどまるのに倦きていた。そこに住む人々の顔が、美についても醜についても、これ以上の秘密を教えてくれそうもないからだ。

 これも「老絵師の行方」の中の一節。ひとは限られた人生の時間の中で見つけ出さなくてはならない。なにを?……たぶん、永遠を、である。ランボーが「地獄の季節」の中で書いていたように。

green tears

Lumix Macro 30mm f2.8 + GM1


 green tears.


このページのトップヘ