naotoiwa's essays and photos

2017年09月



 辻邦生さんの「美しい夏の行方」〜中部イタリア、旅の断章から〜を読んでいる。シエナの町の、カンポ広場の暮れゆく情景描写があまりにも美しくて、嗚呼、またシエナに行きたい。そしてあの、すり鉢の内側のような広場に時間を忘れてずっと寝転んでいたい。そう思ったら居ても立ってもいられない気分になってきた。どうしよう。。さすがに週末の二泊三日程度で行ける場所ではないしw

美しい夏の行方


 空から藍の色が次第に消えて、黒一色になった。だが、その黒は、ぼくが生涯初めて見たえも言えぬ黒であった。陳腐な言い方をすれば輝く黒、ビロードのような黒とでも言ったらいいのか、その黒は、純粋な黒であり、黒になったばかりの、汚れのない黒、処女の黒であった。黒がこれほど柔かく、高貴で、甘やかであるとは、ぼくは思ったこともなかった。

カンポ広場の暮れ方、より



 小学校4年生の時に少年合唱団で「美しき青きドナウ」を唄って以来(?)、クラシック音楽の中でも3/4拍子のWALTZには格別心引かれる。それは今も変わらない。イヴァノビッチの「ドナウ川のさざなみ」、ショパンの7番や9番の別れのワルツは言うに及ばず、ヨハン・シュトラウスもいいけれど、リヒャルト・シュトラウスの「薔薇の騎士」が大好きで、二十代の頃はラベルの「優雅で感傷的なワルツ」に心酔した。

 でも、今までに聴いたことのあるWALTZの中で一番好きなものは?と問われれば、ダニエル・シュミット監督の映画「ヘカテ」の中で使われていたカルロス・ダレッシオ作曲のWALTZと答える。

 映画「ヘカテ」。大学生の頃、主演のベルナール・ジロドーのマネして麻の純白のスーツやスペンサージャケットを買った。今までの人生に悔いがあるとすれば、一度も海外赴任しなかったことだろうか。この映画の主人公のようにモロッコあたりに駐在していれば、間違いなく身を持ち崩していただろうけれどw


water drops

Summilux 35mm f1.4 2nd + α7s


 water drops.




 インスタグラム。以前は使っていた時期もあったが、ここまで流行ると敬遠だ。けれど、あの正方形はいい。人間の視界とは別物。ちょっと違和感、だからモダン。
 でも、あの正方形、なにも今に始まったことではない。フィルムカメラをやってきた人間にとっては馴染みの形なのである。120の中判フィルムを6×6のフォーマットで。ハッセルブラッドしかりローライフレックスしかり。
 だから私は、正方形の写真はフィルムで撮り続ける。ところが、最近はローライフレックスを首からぶら下げた若きカメラ女子なんかもけっこういるわけで、ここはもうひとひねりしないことには気が済まぬ。あまのじゃくの沽券にかかわる。というわけで127のベスト版4×4なのである。つまりはベビーローライ、なのである。

babyRollei

 我が尊敬する名取洋之助が愛用したベビーローライ。彼が使っていた戦前のタイプは軽量だしローライの原点のようなデザインなのだが、1930年代のもので程度のいい個体はほとんど残っておらぬ。ここはやむなく戦後のタイプで我慢する。ということで1963年製ブラックタイプのベビーローライで撮った写真がこれ。ローライナーを付けて接写。クセナーの写りはとても柔らかい。

queen

Xenar 60mm f3.5 of Baby Rollei + ReraPan 100

 けれど、127のベスト版フィルムなんて今では完全な絶滅機種。北海道の専門店から取り寄せる以外入手できないし、スプールが厚めだとフィルム送りもままならぬ。スキャンしてデジタルデータ化するにしても専用のフィルムアダプターなんぞ市販されているはずもない。時代に抗うあまのじゃくはかなり疲れるのである。でも、このベビーローライ、たまらなく可愛いのである。
 
*名取洋之助の「写真の読みかた」は今読んでもとてもタメになります。お薦めします。

swimming

Summilux 35mm f1.4 2nd + CL + Lomo B&W 400


 swimming.


in the kitchen

Xenar 60mm f3.5 of Baby Rollei + ReraPan 100


 in the kitchen.




 今年のヴェネチアビエンナーレは素晴らしかった。アルセナーレのイタリア館で展示されていた「キリストのイミテーション」やジャルディーノのロシア館が特に秀逸。そして、ビエンナーレ本体とは一線を画している形を取っているが、グラッシー宮とプンタ宮で開催されているダミアン・ハースト展には圧倒された。これは大がかりな美術界のフェイクニュースである。SNS全盛時代のモダンアートはどうあるべきか?…賛否両論だとは思うが、この確信犯的広告手法はアッパレである。難破船から発掘された云々の設定も、ここヴェネチアで開催されてこそのシズル感がある。

 滞在中、宿はフェニーチェ劇場界隈の、かつて須賀敦子さんが定宿のひとつとされていたと思われるホテルの予約が取れた。数年前に泊まったときは、まだこの「ヴェネチアの宿」に書かれている描写通りの風景だったのだけれど…

 宿はフェニーチェ劇場の広場に面しているのだから、わからなくなれば劇場への道をたずねればいい。そうは思ってもひとりになると、はたしてうまくホテルに帰りつけるかどうか、にわかに自信はうすらいだ。二番目、と思われた路地を、パン屑をたよりに歩いたヘンゼルとグレーテルのように、両側の店の看板をたしかめながら曲ってはみたけれど、夕方見ておいたのとは、なにかすっかりあたりの様子が違ってみえて、心細くなりはじめたちょうどそのとき、行手に見おぼえのある橋がみえた。どこにでもある小さな石橋。それを渡ってまっすぐのせせこましい通路の家と家のあいだに、なんのしるしなのか、空色のネオンがぼんやりと光っているのが、またまた夕方見た道の印象とかけはなれてみえた。近づくと、それはさしわたし一メートルほどの、だれかが学校の工作の時間につくったのではないかと思えるほど初歩的な星のかたちをしたネオン・サインで、太い針金で道の両側の建物から宙ぶらりんに吊してある。その星形のまんなかには、これも幼稚なレモン色の、変にぐにゃぐにゃしたネオンの文字と矢じるしで、レストランはこちら、とある。

看板

 宿は劇場とのあいだの細い道路をへだてたところにあって、名もラ・フェニーチェと劇場の名そのままである。鍵をもらって、入りくんだ廊下をまわり、汽船の内部のように磨きあげられた木の階段を五階まで登る。部屋はいかにも海の街ヴェネツィアらしい船室ふうのつくりで、そんなデザインが、天井が傾斜して梁材が大きく出た屋根裏の空間にぴったりだった。

階段

 今回、久しぶりに泊まってみたら部屋の内装が全面改装。清潔な白壁で統一されている。で、なぜだか部屋のドアにクリムトの「接吻」の絵がプリントされていて(ウィーンのヴェルヴェデーレで見るべきものをどうしてここヴェネチアで?)かつての重厚なヴェネチアらしい内装が失われてしまったのが残念だった。でもまあ、お湯の出もいいしベッドも広いし、場所の割には値段の設定もリーゾナブルだし、界隈の雰囲気は昔のままだし。
 
 このフェニーチェ劇場界隈、ヴェネチア本島の中では一番好きなエリアである。サンマルコに近い割には静かだし、アカデミア橋にもザッテレにも歩いてすぐ。サンマルコの裏から狭い路地をつづれ折れに歩いていって、フェニーチェ劇場がふいに現れる瞬間はいつ訪れても心トキメク瞬間である。フェニーチェ。不死鳥。1996年に起きた火災からもこの劇場は見事に復活したのである。

フェニーチェ劇場

Summilux 35mm f1.4 2nd + α7s

woman

Summilux 35mm f1.4 2nd + α7s


 a woman by the window.




 ヨーロッパの街ならいくらだって歩ける。日本にいると、一キロも歩けばうんざりするか、げんなりするかのどちらかであるが、ヨーロッパの街にいると、30分でも40分でも3キロでも4キロでも、いくらでも歩ける。

 気候の違いもあるだろう。汗をかかない。街の景観が決定的に違う。パースペクティブな設計。電柱なんか立ってない。そして、匂いと音。定時毎にどこかの教会の鐘の音。

 人はいったいどちらを幸せと思うのか。自分が死ぬ時にはまわりのものすべて、朽ちてしまえと思うのか、人間の寿命をはるかに超えて、残り続ける建物や街並みを愛おしく思うのか。暑くて湿気だらけ、頭の中までぼんやりさせられる刹那をいとおしむのか、いつも理性を呼び覚まさせる、あのひんやりとした風の中で死を思い世界の永遠を思い描くのか。

 サン・ステファノ教会の鐘が鳴っている。ピサの斜塔みたいに傾いたベルタワー。先程からずっとこんなに近くに見えているのに、複雑に交差する水路に行く手を阻まれて、なかなかたどり着くことができない。

鐘楼

Summilux 35mm f1.4 2nd + α7s

運河

FE Sonnar 55mm f1.8 + α7s

firework

FE 55mm f1.8 + α7s


 the last firework in this summer @donau river


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