2017年07月
空ばかり写していた。
東京都写真美術館で「荒木経惟 センチメンタルな旅 1971-2017—」を見てきた。写真集「センチメンタルな旅・冬の旅」を買って一晩中何度もページを繰っていたのは、あれは1990年代の初め頃。二月の雪の中を駆け回る愛猫チロの描写のところで涙が止まらなくなったのを今でもよく覚えている。
今回の展覧会では、1971年の「センチメンタルな旅」から現在に至るまでのアラーキーの「陽子」をテーマにした写真を一堂に見つめ直すことができる。会場内の壁面に書かれたキャプションの言葉を読むだけで、また、あの胸が締め付けられる思いが甦ってくる。
星行
きれいな水色の海だ。きれいな水色の空だ。そして、その境をなす水平線は淡いピンク色に滲んでいる。空の所々に、真っ白な雲がメルヒェンみたいにぽっかりと浮かんでいる。
そんな海と空と雲を眺めながら、僕はさきほどからうつらうつらしている。列車はコトンコトンと規則正しい振動を響かせている。僕の隣で、真っ白な麻のシャツを着た少女もうつらうつらしている。彼女がとてもきれいな横顔をしているのが僕にはわかる。鼻梁のラインがとても典雅なのが僕にはわかる。
列車はホシユキという名前の駅を通り過ぎていった。星行と書くのか、あるいは星雪か。駅を過ぎてから、やがて、水色は少しずつ白っぽくなってきて、いつの間にか、まるで白昼夢みたいに見えてきて、その中に、なんとも風変わりな景色まで見えてきて、あるいはこれが蜃気楼というものなのかもしれぬ、そんなことを思いながら、僕と僕の隣に座っている少女はさきほどからずっとうつらうつらしている。
秘密兵器
北朝鮮が、朝鮮戦争休戦協定記念日に合わせてまたミサイルが発射する可能性ありとの報道が続いている。…いよいよもって、核を搭載したミサイルが自分たちの住む場所に到達してしまうかもしれない日のことを、我々はリアリティを持って考えなくてはならないのかもしれない。その時、我々は、今まで積み上げてきたこと、これから積み上げられるかもしれない未来、そのすべてを一瞬にして失う。その時、我々は、最後になにを思うのか。
ブッツァーティの「秘密兵器」という短編に、こんな一節がある。
しかも、おそらくこれが最後だろう。驀進してゆく紡錘形のミサイル群が、人生の夢幻をすべて…小さなものも大きなものも一緒くたに…持ち去ってしまう。愛情、居心地のいいマイホーム、恋しい人と過ごす時間、富や名声への憧れ、家庭という魔法、春、人智、音楽、穏やかに過ぎてゆく歳月…。
「神を見た犬」 ブッツァーティ著 関口英子訳
ちなみに、この短編では、米ソそれぞれが発射したミサイルが相手の領土に到達し全国民が死を覚悟するも、…その後、なんともパラドックスに満ちた展開が待っている。
ブッツァーティ。カフカの再来と言われたイタリア人作家。「タタール人の砂漠」は三度読んだ。他にもウィットに満ちた不条理な短編を数多く書いている。大好きな作家のひとり。
司書
そのひとは、古めかしい三階建てのビルの一室で、たくさんの本に囲まれて暮らしている。ここは、時代に取り残された小さな文学館である。ここで、そのひとは、毎日朝の九時から夕方の五時半まで受付に座って、たまにやってくる観光客相手に郷土の作家についていろいろ説明をしたり、地元の老若男女の人たちと小声で世間話をしたり、そして、他に誰も居ない時(ほとんどの時間帯がそうだ)には、ずっとひとりで本を読み続けている。読書用の眼鏡を鼻先にズラしながら。
館内にはスクリャービンのピアノ曲が流れている。モダンなのかクラシックなのか、抽象派なのか大仰なロマン派なのかよくわからないロシアの作曲家。そういうのが彼女の好みなのだろう。
彼女は、決して、自分で文章を書いたりすることはない。朗読することもない。ただ毎日、好きな作家の言葉を目で追い、その言葉にさまざまな感情を喚起させられ、それが心の襞の中に大切に保存されていくばかり。
ここは、北国の港町である。夏も冬も、街中の空の至るところにたくさんのカモメが飛んでいる。そして、カモメたちはひとの悲鳴にも似た甲高い声でいつまでも鳴いている。
Summilux 35mm f1.4 2nd + M9-P
port
ズシリ
ようやく大学の前期が終了する。はじめての経験だったこともあり、ズシリと半期の疲れがアタマと体の至る所に蓄積されているようだ。4月からの四ヶ月間で、学部で5コマ、大学院で2コマ。一時間半の授業が各々15回ずつなので合計すると105通り。その各々のコンテンツを作り込むのにも時間がかかったが、それよりもなによりも、担当させてもらったみなさんたちひとりひとりの思いというのか心情というのか、真情とまで言ってしまってもいいのか。それぞれ15名程度のゼミナールは担任制みたいなもので、それが1年から4年まで4クラスあるのである。ひとはひとの心を受け止めることにこそやはり一番ズシリとさせられるもので、そういうのはもちろん、家庭でも親戚の間でも、そして以前の会社においても当たり前のようにあったのであるが、ハタチ前後のみなさんの真情を受け止めるのは、今までとはやはり訳が違うのである。まだまだ原形質のカオスの香りがする、定形にプロット化される前の彼ら彼女らのピュアなクオリアに幾度驚かされたり、新たな発見をさせられたりしたことか。それがとても新鮮であり楽しくもあり、でも、時にかなりズシリとさせられて。同僚のみなさんに聞くと、一年目は特にそうですよー、と言ってくれるのだが。
さあて、リセットしてリフレッシュして、また9月からしっかりと彼ら彼女らのクオリアを受け止められる状態にしておかねばと思う、今週は前期試験ウィークなのである。