2017年06月
ゆっくりと時間が止まる瞬間(とき)
この世界の「時間」が、ゆっくりと停止する瞬間(とき)がある。残念ながら、年を取るにつれてそうした状況に遭遇する頻度は年々少なくなっていくようだが、今でも、一年のうちに数回、うまくいくと月に一度ぐらいのペースでそうした状況に出会う。
例えば、真夏のような日射しが照り続いた日の夕暮れ時。まだ残っているオレンジ色の日射しに夜間の照明が加わって、ロードサイドの店の看板が、映画のセットの書き割りのように見える瞬間(とき)。まるで、ナスターシャ・キンスキーが出ていたコッポラ監督の昔の映画「ワン・フロム・ザ・ハート」みたいに。
あるいは、風がピタリと止んだ午後3時のミナト町。古い洋館の片隅から、クルト・ヴァイルが書いた「三文オペラ」の中に出て来るメロドラマのメロディの一節が聞こえてきた瞬間(とき)。
あるいは、とある日曜日。暗い坂道を降りきった先に突然開けた川沿いの野原で、人びとが思い思いの道具とポーズで運動に昂じているのを目にした瞬間(とき)。
waste a thousand years
久しぶりに、ボーイ・ジョージの声が聞きたくなった。
この甘いビューティフルなヴォイスに包まれていた1982年。あれから、時間はどれだけ無駄に流れ去っていったのだろう。…ボーイ・ジョージ、1961年生まれ。同い年。
Do you really want to hurt me
Do you really want to make me cry
Words are few, I have spoken
I could waste a thousand years
Wrapped in sorrow, words are token
Come inside and catch my tears
fountain
灰緑色
clouds
言語隠蔽
これから「表現する」ことを目指していく人に対して、私は折に触れ、「言語隠蔽」(げんごいんぺい)について話すことにしている。言葉で表現することの素晴らしさについて。と同時に、それと表裏一体の危うさについて。自分のクオリア(感覚質)が表現したいと欲求しているもの、そのすべてをホリスティックに言語化することは、残念ながら我々にはできない。言語化された瞬間、抜け落ち忘れ去られていくもの。それらの中にこそ本質的な何かがあったと直観することは、アイデアを考えることを生業にする人ならば誰でもが経験済みのことであろう。
そのことを、ヴィトゲンシュタインは「語り得ないことについては人は沈黙せねばならない」と言ったのだ。
言葉よりは、写真や絵画や音楽や映像の方が、抜け落ちてしまいそうな本質的なものを掬い上げることに長けている気がする。それらのメディアの方が、生命体の揺らぎのようなものを複雑系のまま担保しやすいからだ。でも、例えば、原作を映像化した映画の場合には、作者である監督は、原作者よりももっと意図的に言語&映像隠蔽を施すことが出来るようになるのではないだろうか。映像は言語よりも格段にリッチな情報媒体である。ゆえに言語の余白部分にさえも明確な輪郭付けを施すことが可能になってくる。
表現するということは、表現されるということは、作り手と受け手の化かし合いである。そのことを肝に銘じて「表現する」こと。どこまでを意図的にするのか、どこまでを無意識のフィールドに残すのか。その匙加減こそが作品のクオリティを決めるポイントのような気がする。
そんなことを、私は折に触れ、これから「表現する」ことを目指していく人に対して話すことにしている。あるいは、自分も表現者の端くれとして、いつもこのことを考えるようにしている。
P.Angenieux 25mm f0.95 + E-P5
鮎
遠望
今日は亡母の命日である。四年が経った。彼女はきっと、この四年間の私の人生の迷走をハラハラしながら見ていたに違いない。(本人は迷走とはさらさら思ってなかったけれど)草葉の陰から「きれいごとばかり言ってないで、実を取りなさい」と叱咤していたかもしれない。「どんな状況になっても、自分の能力だけで生きていけるための土壌作りをしたのは、もとはと言えばこの私だからね」と恩着せがましく言っていたかもしれない。
今日は梅雨の晴れ間。近くの山までトレッキングに行ってきた。そうして、展望台から街並みを遠望しながら、一分間だけあなたのことを思った。性格があなたに似てしまったことについてちょっとだけ恨み言を言った。小さい時からいろんなチャンスを与え続けてくれたことにたくさんのありがとうを言った。そして、もう決して戻ることのない決定的な不在について、一分間だけ思いを馳せた。
GR 18.3mm f2.8 of GRⅡ