naotoiwa's essays and photos

2017年02月

daruma

Elmar 50mm f2.8 L + M9-P


 達磨。




 昨日、友人にお誘いいただいて、久しぶりに国立能楽堂に行ってきた。式能である。各流派のお歴々が一堂に。フルで見たら朝の10時から夜の20時までぶっ通し。スゴイ。演目も盛りだくさんである。春らしく「翁」あり「鶴亀」あり。宝生流家元の「翁」なんてなかなか見れるもんじゃない。堪能しました。

式能

 その第一部の最後の演目が狂言の「樋の酒」だった。主人の留守中に米蔵と酒蔵の番を任された太郎冠者と次郎冠者。まずは次郎冠者が酒のかぐわしい匂いに誘われ仕事を忘れてグイグイと。それを見て羨ましがる太郎冠者。ならばと、次郎冠者はふたつの蔵の窓越しに竹の樋(とい)を通し太郎冠者にも酒を飲ませてやることを思い付く。で、いつの間にかふたりは宴会状態に。そこに主人が戻ってくる。当然のことながらふたりは叱咤されて逃げ惑う。でも、もうかなり泥酔しているので許しを請う仕草も楽しげだ。「ゆるされませ」「ゆるされませ」

 能といえば幽玄の美。橋懸かりの廊下はあの世とこの世をつなぐ道だと言われているが、この狂言「樋の酒」では、その橋懸かりと舞台正面を跨いで竹の樋が酒を流している。そこには、神を誘うような音色の能管も、「ヨーイ」「ヤ」「ハ」の掛け声も、修羅物や鬢物を見る時のような耽美性もなし。ま、例の邯鄲の一節である「よも尽きじよも尽きじ薬の水も泉なれば。汲めども汲めども弥増に出づる菊水を。飲めば甘露もかくやらんと。心も晴れやかに。飛び立つばかり有明の夜昼となき楽しみの。栄華にも栄耀にもげにこの上やあるべき」のくだりは典雅だったが、基本はただただネアカな能楽。こういうのも悪くない。上演中に思わずゲラゲラと笑ってしまった。ゆるされませ。ゆるされませ。

jaw

Summilux 50mm f1.4 2nd + M3 + APX400


 jaw.


ripple

Summilux 50mm f1.4 2nd + M3 + APX400


 ripple.


mohair

Lumix 30mm f2.8 Macro + GM1


 mohair.


morningmoon

FD 200mm f2.8 + α7s


 有明の月。


spider

CZ Jena 5cm f1.5 *T (wartime) + R2C + Acros100


 spider.


nurse

CZ Jena Sonnar 5cm f1.5 *T (wartime) + R2C + Acros100


 statue of nurse.





ぼんぼり

Lumix 42.5mm f1.7 ASPH. + GM1


 梅のぼんぼり。




 やはり、この世界の秘密を解く鍵は「音」と「匂」の中に隠されている気がしてならない。

 私は少年の時に夏の朝、鎌倉八幡宮の庭の蓮の花の開く音をきいたことがあった。秋の夕、玉川の河原で月見草の花の開く音に耳を傾けたこともあった。夢のような昔の夢のような思い出でしかない。ほのかな音への憧憬は今の私からも去らない。私は今は偶然性の誕生の音を聞こうとしている。(中略)
 匂も私のあくがれの一つだ。私は告白するが、青年時代にはほのかな白粉の匂に不可抗的な魅惑を感じた。巴里にいた頃は女の香水ではゲルランのラール・ブルー(青い時)やランヴァンのケルク・フラール(若干の花)の匂が好きだった。匂が男性的だというので自分でもゲルランのブッケ・ド・フォーン(山羊神の花束)をチョッキの裏にふりかけていたこともあった。今日ではすべてが過去に沈んでしまった。そして私は秋になってしめやかな日には庭の木犀の匂を書斎の窓で嗅ぐのを好むようになった。私はただひとりでしみじみと嗅ぐ。そうすると私は遠い遠いところへ運ばれてしまう。私が生まれたよりももっと遠いところへ。そこではまだ可能が可能のままであったところへ。

九鬼周造 「音と匂──偶然性の音と可能性の匂」


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