naotoiwa's essays and photos

2017年01月

lapis lazuli

G-Zuiko Auto-S 40mm f1.4 + NEX-7


 the color of lapis lazuli.



 



 咽が痛い。チリチリ。咳が出る。コホンコホン。熱を測ってみたら37度7分。うぬ?微妙。とりあえず耳鼻科に行くことにする。まあ、流行の咽風邪ってところだろう。「念のため、インフルエンザの検査しておきましょうね」ということで、「ちょっとモゾモゾしますよー」鼻腔の奥の粘膜採取、その場で、3分。「…A型ですね」「え?」「ほら、ちゃんとクッキリ出てます。A型です」「でも、インフルエンザならもう少し高熱かと」「いろんなタイプがあります。時には36度台でもインフルエンザの場合があります」「…」「薬出しておきます。リレンザ使ったことありますか?」「いえ」「吸引タイプで早く効きます」

 ということで、ここに来てインフルエンザに罹患してしまったのである。何年ぶりだろう?軽井沢の奥の湯の丸スキー場で十年前ぐらいに罹患して以来である。

 これが吸引タイプのリレンザ。そうか、最近は内服のタミフルだけじゃないんだな。

リエンザ

 で、それからずっと大人しく寝ているのだが、全然熱が下がらない。38度5分。これはもうりっぱなインフルエンザである。どうしても辛かったからこの解熱剤を、と渡されたアセトアミノフェンに手が伸びる。頓服である。

 そう言えば、昔は頓服といえば、赤いパラフィン紙で包まれていたなあと思い出す。。今じゃ、処方箋を持って薬局に行くと「お薬手帳」がどうのこうの、ジェネリック推奨に賛同しますかしませんか。…なんとも味気ない。極めて資本主義的な分業である。

 あの頃は、薬はすべてお医者さんで配合していた。看護婦さんが臼のような容器のなかで薬をすりつぶしていた情景を思い出しているうちに、熱のせいで意識が朦朧となってきた。。

 ということで、みなさん、ここ5日間ぐらいは私に近づかないようにお願いいたします。

 

 街はどこも冬物のバーゲン真っ最中である。そろそろコートがくたびれてきたし(と理由を付けて)いくつか馴染みのブランド店をこっそり覗いてみたりしているのだけれど、どの店も今年はなにやら様相が違うのである。サイズはいつものSサイズなのに、試着するとどれもこれもゆったり目というか、はっきり言ってデカ過ぎる。「え?これでSサイズですか?」と店員さんに尋ねると、「はい、ビックシルエットタイプですから」とのこと。…なるほど。これが噂のビックシルエットか。ここ1~2年、また流行が始まっているのだ。肩のラインが落ちて、全体が丸みを帯びた大きめの、80年代、90年代を彷彿とさせるデザインである。世の中デフレ状態の時はタイトシルエットが流行し、インフレ気味になるとビックシルエットが流行するという説もある。そろそろ株価も2万円を超え、ミニバブル時代が再来するということか?

 ファッションは時代の縮図だろうけれど、でも、なにもすべてのブランドが揃いも揃って同じ方向に向かわなくてもいいのになあ、と思う。洋服だけではない。近頃のクルマのデザインも然りである。そろそろ愛車も12年落ちだしエアサス壊れる前に買い換えておかないとなあ(と理由を付けて)いくつかのディーラーをこっそり覗いてみたりしているのだけれど、はっきり言って買いたい車がないのである。みんな巨大なフロントグリルで3Dっぽいヘッドライト周り、オーガニックと言えば聞こえはいいけど、なんだか「ケバい」デザインのものばかり。

 まあ、そういうデザインに移行したくなる気分はわからないでもない。でも、これだけ価値観が多様化した現代なのだから、各メーカーは自分たちのデザイン主張をもっともっと固有化してもいいと思うのだが。

 ちなみに私は、相変わらずタイトなシルエットの洋服が好きだし、クルマは60年〜70年代のアルファロメオのジュリアやメルセデスの280SLのような古典主義のシルエットが好きである。クルマはクルマらしい形をしていればいいのだ。



 ミナト町のマンションの一室で、冬の間ずっと古風な小説でも書いて過ごす。少し前までなら、そんなシチュエーションを考えてみるだけで心ときめいたものを。近頃はダメだ。すぐに醒めた気分になる。それが現実になれば、かえって自分は途方に暮れてしまうに相違ない。現実とイメエジの折り合いをうまく付けられないままにこの歳になってしまった。そのしわ寄せがやって来たのかもしれぬ。

 自分自身はあの頃からなにひとつ変わってはいないのに。思うことも感じることも考えることも。書き留める言葉も口に出してしまう言葉も、人への思いやりもその偽善の具合も、なにひとつ変わってはいないのに。いや、だからこそ。変わっていないことが問題なのだ。

 そんなことをぼんやり思いながら、そのマンションの一室の窓の向こうを眺めやる。真冬の街の情景が歪んだ硝子越しに見えている。イルミネーションが柔らかく瞬いて、広場を行き交う人々の緩やかな動きが伺える。眼に映るこの情景はホンモノなのか、あるいはこれもただの書き割りに過ぎないのか。

 「いかがでしょう?」気が付くと、隣で誰か見知らぬ人が営業的な微笑みを浮かべて立っている。「ずいぶんと古い建物ですが、当時の設計のものは天井も高いですし、風呂場のタイル張りなんかも凝っていますよ」…ああ、そうか。私はこのマンションの前に立て掛けてあったオープンルームの案内看板を見て、誘われるがままに不動産会社に電話をかけてしまったのだ。「どうでしょう。おひとり用の書斎で使われるには十分な広さだと思いますけれど…」

port town

Summaron 28mm f5.6 + MM

gentleman

Summaron 35mm f3.5 L + M8


 gentleman.




 雨の日は、たぶん、気分は憂鬱である。特に冬の、朝からずっと冷たい雨が降り続いているような日には身も心もぼんやりと停滞してしまう。外に出る気なんて毛頭起きない。部屋の中で、窓ガラスに付着する雨筋をぼんやり眺めながら、たぶん、薄い音量でかかっているのはミシェル・ペトルチアーニのピアノである。



 ネットで買った古本の(「程度:良い。ただし所々に経年のヤレあり」とコメントされている)カビ臭いペエジをパラパラとめくりながら、たぶん、今よりはずっとリリカルだった頃の小説を読んでいると、案の上、ぼんやりと眠くなってくる。で、昼日中からベッドに潜り込むことになる。ベッドの電気敷き毛布に下半身を横たえていると、なんとも分かり易く守られている心地がして、すぐに睡魔に襲われる。といっても寝入ってしまっていたのは正味一時間程度のことなのだけれども。

 日中の睡眠から復帰すると、案の上、偏頭痛が始まってしまっている。眠っている間に、たぶん頭の中の思考するための襞(のようなもの)の位相がズレてしまうのだ。微熱っぽい。憂鬱な気分が加算される。空はどこまでも灰色で雨は止む気配がない。ますます世界はぼんやりとしてくる。でも、こういうのは決して嫌いではない。偏頭痛は我慢できないほどではない。

 今日は、おそらくは今年はじめての憂鬱な、冷たい雨の降る真冬の一日。



 今日は亡父の命日である。亡くなってもう二十年が経つ。

 父親は無類の車好き、ドライブ好きで、幼い頃からいろんなところに連れて行ってもらった。東海・北陸地方だと郡上八幡、飛騨高山、三方五湖、あるいは伊勢、関西方面はもちろんのこと、まだ東名高速道路が全線開通していない時期に、熱海方面まで連れて行ってもらった記憶がある。

 で、最後に車でいっしょに行ったのはどこだったろうかと思い返してみると、…たぶん、あの時である。

 あれは、私たち夫婦がまだ結婚して間もない頃、京都方面に旅行に出かけたことがあって、その際、父親は車を飛ばして合流してくれたのである。場所は、奈良の高畑にある新薬師寺。例の十二神将像で有名な天平時代のお寺である。

新薬師寺

Elmarit 28mm f2.8 1st + M9-P


 愛車のメルセデスを新薬師寺の前に停めて待っていてくれた時の光景を思い出す。あの時、すでに父親はかなり肝臓の状態が悪かったようで、C型肝炎が悪化しないようにとインターフェロンの注射を定期的に行っていたが、「情けない話だが、車で奈良に来る程度のことで、けっこう疲れるようになってしまったよ…」と珍しく弱音を吐いていたのを思い出す。

 住職の方が堂内の薬師如来像について説明をしてくださっていたのを覚えている。「薬師如来さんは、西方浄土の阿弥陀さんと対を為している仏さんで、こちらは東方の瑠璃光浄土を司っておられます。体中から青い美しい光を放ち世界を照らしてくださっています。薬師如来さんは全部で十二の大願を掲げていらっしゃいまして、その七番目が人々の病気を平癒してくださるというものです」

 その薬師如来さんにずっと手を合わせていた父親。自分の病気平癒を願っていたのであろうか。そして、もう一度元気になって、また昔のように日本全国どこへでも車で出かけられるようになりたいと思っていたのであろうか。…しかしながら、あれから三年足らずして、父親は肝硬変で亡くなってしまった。

 スポーツマンで何事にもアクティブだった父親は、たぶん西方浄土よりも東方浄土が似合っている。…朝焼けの空に向かって父親と話をしてみることにした。瑠璃光はラピスラズリの色である。

ATOM

GR 18.3mm f2.8 of GRⅡ


 atom.


fire

Summilux 35mm f1.4 2nd + M9-P


 浄化。




 年が明けた。ホッとした。なぜならば、昨年2016年はどんな占いを見てみてもヒドイ運勢だったからである。例えば、六星占星術では大殺界&中殺界の年であった。(私は霊合星人とやらで、メインとサブの組み合わせが片方が良くても片方が悪い等、毎年なにやら複雑なパターンが多いのであるが、昨年はそのどちらもが最悪の「乱気」と「減退」。ダブル殺界だったのである)まあ、運命論的なことをさほど信じているわけではないけれど、ここまでハッキリ言われているとさすがに気が滅入る。そんな一年だったのだ。で、それが今年から好転するのである。「再会」と「種子」。昨年と打って変わって、なんだかとっても春めいている。ルンルン。占いのキーワードもコピーは大切である。

 毎年、元旦から初詣に行ったりはしないのだけれど(いつもは三ケ日の人がはけてから)今年は心を新たにして初日から神社に向かった。本来ならば太宰府天満宮に行くべきところなのだが(去年、ここでいろいろとお願い事をしたので)さすがに九州は遠い。同じ菅原道真公ならば連携して下さるだろうということで別の天満宮へ。

 お神籤も引いた。「吉」と出たが、「夜深うしてわずかに微光の灯るなり」「精神の安定を保ちたゆまぬ努力を続けなさい」と書いてある。これだけ読むと「凶」なのではと思ってしまうが、お神籤とは本来こういうものである。常に未来に対する努力目標が書かれているものなのである。大殺界を経験した者はもはやこの程度の言い回しで悲観することはない。念のため、この神社のお神籤の配分を調べてみると、25本中、大吉3本・吉5本・半吉4本・末吉6本・末小吉3本・凶4本となっている。
 お神籤は持ち帰ることにした。これからの自分への戒めの言葉だ。財布の中にでも入れておこう。この枝には結ぶなと書いてあるし。もう一ヶ月もしたら梅の花もほころび始めるのだ。

L1005632

Summilux 35mm f1.4 2nd + M9-P

 それにしても。霊合星人とはなんとも因果な星の下に生まれた者のようである。なにせ、誕生年の運勢がメインが「停止」でサブが「達成」なのだから。その存在自体、メタフィジカルなコントラストに満ちている。

 ということで、2017年となりました。みなさま、今年もどうぞよろしくお願いします。

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