2016年12月
Barolo 1961
去年の春に長年勤めていた会社を退社する際、20年近くお世話になった上司に壮行会をしていただいた。まだ、これから何にフォーカスしていくべきか暗中模索していた時期で、その心情をそのまま「これからは自分のアイデンティティを無理やりひとつに限定せず、さまざまな可能性に対してフラットにチャレンジしてみたい」などと甘っちょろいことを言っていた自分に対して、「おおいわさんは、最近の若者みたいな価値観を持っていますねー。いいと思いますよ。応援します!」と言ってくださった。その激励の言葉を支えにここ二年近くがんばってこれたような気がする。で、その時にいただいたプレゼントがこれ。私のバースイヤーのバローロのワインである。こ、こんな貴重なものを。。。恐れ多くてそれからずっと手を付けられないでいた。いつかこれからの自分の生き方の目処がハッキリ見えてくるまで大事にとっておこうとも思ったが、でもやっぱり、この尊敬する上司といっしょに飲むのが一番シアワセかもと思い直し、彼が今年いっぱいで定年を迎えられるのを期に、昨晩、昔の仲間で集まってみんなでこの1961年ものの貴重なバローロを開栓することに相成った。
さすがに、コルクが。…ワインオープナーでは太刀打ちできないようだ。ポロポロと剥がれていく。なにせ55年も経過しているのだから致し方ないだろう。こういうときは彫刻刀かも!ということで、彫刻刀でコルクの縁を少しずつ慎重に削り取っていく。そして、最後はコルクの破片ごとボトルの底に落とし込み、そのまま全部カラフに注いだ。
GR 18.3mm f2.8 of GRⅡ
で、いよいよである。55年もののバローロは如何に?
色は赤というよりも焦げ茶に近い。香りは?最悪「お酢状態」も覚悟していたが大丈夫そうだ。ゆっくりと一口含んでみる。…こ、これは、お、おいしいではないか!バローロの55年ものなんて聞けば、どれだけ重くて濃厚な味わいになっていることだろうと予想していたが完全に裏切られた。熟成感はもちろんあるが、なにやら軽みまで感じられる味である。集まったメンバー全員に好評だった。ワイン通の友人が「1961年のバローロは稀に見る当たり年だったし」と教えてくれる。
ただ、空気に触れると酸化が著しく早く進むようだ。みんなで急いでボトル一本分を空けた。
我々人間も、こうありたいよねえ、という話になる。熟成されればされるほどかえって「軽み」が増していく。でも、開栓後は賞味期限が短めのようでしてw、そのまま放置しておくとすぐに「お酢状態」になりかねないようで。。
60歳を迎えられたHさん、そして15年前から確実に15年の歳を重ねた昔の仲間達。彼ら彼女らの熟成に幸あれ、と願う年の瀬であった。彼ら彼女らといっしょにヤンチャをやり尽くしたあの年月のことは、これからも決して忘れることはないだろう。
人生の前半
人生で最も重要なことは、人生の前半がどこで終わるかを見きわめることです。(中略)人生は数字ではありません。人生は割り切れるものではないんです。私の云う前半後半は、時間と無縁のもので、代わりに潮時というものがあるんです。人生には大きな潮時が二度訪れる。一度目が前半の終わり、そして、二度目が後半の終わりです。
吉田篤弘著 「電球交換士の憂鬱」より
半地下
マンションに住むとしたら何階がいい?
最上階、と答える人は多いだろう。人間は眺めのいい部屋に憧れる。あるいは、敢えて一階と答える人も多いかもしれない。エレベーターに乗らなくてもいいし、通りに面している方が街の活気がダイレクトに伝わってくるし。
で、私はと言えば、半地下と答える。相変わらずのあまのじゃくでスミマセン。でも、かなりの昔から(たぶん小学生ぐらいの頃から)将来自分がマンションやビルに住むとしたらゼッタイに半地下がいいと思い込んでいたフシがある。地下ではない。半地下である。まったくの地階は陽が当たらず陰気だが、半地下は決してそうではない。
私がずっと思い描いていた半地下の部屋というのは、以下のような部屋である。かなり具体的なイメージがあるのだ。
そのマンションは低層の三階建てで、とあるミナト町の坂道沿いに建っている。坂の傾斜は緩やかで、人々はゆっくりとその道を登り、ゆっくりと下っていく。マンションはそこから3メートルほどセットバックしたところに建っていて、しかも一階部分が道路から1メートルほど下がっている。つまり、入口となる一階部分が半地下に位置しているのだ。で、そこからはいつも窓越しに、坂道を登り、あるいは下っていく人々の姿を仰角30度ぐらいで眺めやることができる。彼ら彼女らの顔はよくは見えない。でも彼ら彼女らの伸びやかな肢体を、少し距離を置きながら憧れを持って仰ぎ見ることができる。そして陽の光は、夏は1/4ぐらいまで、冬には部屋の半分ぐらいのところまで差し込んできてくれるだろう。…そのくらいがいいのだ。そのくらいがちょうどいい。内側から外の世界を眺めやる感じも、陽の差し込む感じも。
port town
Merry Christmas
フェイク
中高年の御多分に漏れず、ちょいとこだわりの文房具が好きである。万年筆は特に好きで、カランダッシュとかモンブランとかデルタとか、今まで人生の節目に買い集めたものがいろいろあって、さあて、今日はどれを持ち歩こうかと悩んでみたりするのが毎朝の楽しい習慣である。で、数年前にある知人から、モンブランは万年筆もいいけどボールペンも柄がドッシリしてて書き易いよ、よかったらこれ、あげる!と、なんと、頂いてしまったものがあって、以来それをありがたく日常使いをしてきたのだけれど、先日ついにインク切れをおこし、この度、銀座の大手文具店まで換え芯を買いに出かけることに相成った。
売り場の方に相談すると「はい、モンブランの替え芯ですね、色は同じミステリーブラックでよろしいでしょうか」…奥のストックヤードから部品を持ってくるとその場で入れ替えをしてくれた。なんとも手慣れたものである。ところが、「あれ?」最後のところでうまくいかないようだ。新旧比較してみて「先端のネジのところの形状が微妙に違うみたいですね。おかしいですね…」「同じモンブランなのに形状にいくつかバリエーションがあったりするのでしょうか?こっちは古いタイプなのかな?」と私。担当してくれた人は売り場の他の方にも何人か聞いてくださったようだが、解決せず。「残念ながら私どもはこの形状のモンブランの替え芯は扱っておりません」とのこと。
狐につままれたような気分で文具店を後にする。ブランドモノなのにその消耗品が形状違いで現在取り扱いがない、などということがあり得るのだろうか。頂いたものはよほど型が古いものだったのだろうか。…そのままモンブランの銀座本店に直行し、これこれこうで、と事情を説明する。「拝見いたします」…クールでハンサムなお兄さんは右ポケットから魔法のように新しい替え芯を取り出し、先ほどの文具店の方と同じように入れ替えを試みてくれたが、やはり先端のネジの形状が違うらしい。この時点で、クレバーな彼はもうピンと来たようで、今度は胸のポケットからルーペを取り出すと、芯も本体も子細に点検した後に「お客さま、大変申し上げにくいのですが、お客様のこちらのボールペンはモンブランの商品ではございません」「…」
穴があったら入りたいというのはこうした状況を言うのであろう。なんと、このボールペンはニセモノだったのだ。こちらモンブランの本店では以前にもボエムの洗浄とか名入れとか、私もまあそこそこの顧客かも、などと思い込んでいたのに、ホンモノとニセモノの区別も付かなかったなんて。それにしても。このニセモノほんとうに良く出来ている。替え芯にもモンブランのロゴ表記、そしてメイド・イン・ジャーマニーとまでちゃんと刻印されているのだから。これをくれたあのひと、今頃舌を出しているかもしれぬ。まあ、彼一流のユーモアだったのかも。
ホンモノとニセモノ、リアルとフェイク。そうした境なんて実際はあって無きが如し、などと日頃うそぶいていたりするものの、こうしたあまりにも実際的な模造品というのはさすがにねえ。…うーむ。銀座でとんだ赤っ恥をかきました。
Egypt
柚子湯
今年も残りわずか。もう五十数年も生きているので、「一年」の過ごし方に関してはそれなりに経験もあって、さまざまなパターンにそつなく対処できる自信はあったのだが、今年はナカナカどうして。手強い一年だった。近年まれに見る激動の一年だった。いろんな新しいヒトに出会い影響を受け、ものすごく実際的なことからものすごく形而上学的なことまでひとりで徹底的にやり切った一年だった。そして、師走。今日は冬至である。一年で日が一番短い日。午後の4時半には日が暮れる。でも、寂しくはないのだ。だってこれからは毎日、日が長くなる一方なのだから。
さあて、柚子湯にも浸かることにしよう。ちょっと疲れたなあと思う。でも、この歳でこうして目まぐるしい一年を過ごせたことにまずは感謝しなくてはならない。柚子の香せり。心が和らぐ。もうクリスマスか、と気付く。