2016年11月
人生は、他者
映画「永い言い訳」、ロードショーが終了する前に遅まきながら見てきた。
本木雅弘はまさにハマリ役。自分のことが一番好きな見目麗しくインテリな男。その男が妻を亡くしたことを契機に最後は、「人生は、他者だ」の心境に行き着く。
あのひとが居るから、くじけるわけにはいかんのだ、と思える「あのひと」が、誰にとっても必要だ。生きて行くために、想うことの出来る存在が。つくづく思うよ。他者の無いところに人生なんて存在しないんだって。人生は、他者だ。
なんと含蓄のある言葉だろう。片や、かのサルトルは、自意識を損なわせる他人の支配力・影響力のことを称して、「他人は地獄」なんて言っているけれど。(戯曲「出口なし)
いずれにしても、人生は自分だけのもの、自己実現のためのものという考えの域を出ないことには人生の奥義はなにも始まらない。そのことは、ある程度の年齢や経験を積み重ねると否が応でもわかってくる。
(PS) 大宮陽一(演じるのは竹原ピストル)の長男、長女役ふたりの演技が絶妙!
santa
メガネの精
眼鏡店に行くといつも思うことがある。店員さんたちはみんな眼鏡をかけている。眼鏡店に勤務する人は全員近視なのだろうか。視力を矯正する必要がない人は眼鏡店に勤めてはいけない規則にでもなっているのだろうか。いや、そんなことはあるまい。でも、やっぱり、どの店に入っても、みんながみんな眼鏡をかけているのだ。今、この店でワタクシたちの相談に乗ってくれているこの女性も、素敵な眼鏡をかけている。
「あのう」ワタクシは意を決して彼女に尋ねてみることにした。「メガネ店に勤めている人は、みんなメガネをかけているのですか?」と。彼女は少し緊張したのか、人差し指で眼鏡のブリッジを押さえながら、それでもキッパリと「はい、当店では全員がメガネをかけています」と応えてくれた。「やっぱりね。ということは、みなさん視力が悪いということ?視力1.5の人はメガネ店にはいないの?」「いえ、そんなことはありません。正常な視力の者もたくさんいます」「それでも、みなさんメガネをかけているんですね?」「はい、ですから人によっては度のまったく付いていないレンズを付けている場合もあります」「つまりは、伊逹メガネってこと?」「そういうことになりますでしょうか。でも」と彼女はもう一度ブリッジの部分に人差し指を添えながら、…
あれ、この仕草、誰かに似てるなあ。数分間記憶の中を辿っているうちにようやく思い出した。ユミヨシさんだ。村上春樹の昔の小説の中に出てきた女の子。札幌のホテルのフロント係の女の子。ホテルの精。
「やはり、私たちはお客様にメガネを提供させていただく仕事ですから、掛け具合とか、私たちも日々お客様と同じ立場でメガネを体験し研究していたいと思っております」…なるほど、素晴らしきプロフェッショナリズムである。納得。
「すみません、ヘンなこと聞いちゃって」「いえ、こうした質問をされるお客様はけっこういらっしゃるので」…え、そうなの?こんなこと考えているの自分だけだと思ってたら、なあんだ、けっこうノーマルな質問だったのね。よかった、でも、ちょいとショック。ワタクシの視点などユニークさのカケラもなかったということか。
そんなワタクシの心の中の葛藤を見透かしてでもいるように、彼女はもう一度メガネのブリッジ部分に人差し指を添えて、にっこりと微笑んでくれている。まるで、メガネの精みたいに。
鰻と名文
銀座の竹葉亭、南千住の尾花、飯倉の野田岩、松濤のいちのや。おいしい鰻が食べられる名店は数多くあるが、やはりここの鰻は格別である。鎌倉は由比ヶ浜大通りの「つるや」。鎌倉に来ればここに寄る。ここに来たいがために鎌倉に行く。創業1929年。いかにもの老舗のたたずまいがいいのである。りっぱな鎌倉彫のお重がいいのである。
そして、肝心の鰻はと言うと、脂が乗っているのに身はふわふわ軽やか、少し固めのシャリとサッパリ目のタレとのバランスが絶妙なのである。ここに来ると年甲斐もなく「二段中入れ重」を食べたくなる。(でも、今日はやめておこう)
食べ終わり、領収書をいただくとこりゃまたご立派。まるでどこかの神社仏閣になにか寄進でもしたような気分になる。
ああ、うまかった。ワタクシ鰻が好物なのである。ニュルニュル泳いでいるウナギには触ることもできないくせに。身を開きタレに漬けて串焼きにするとこれほどうまいものはない。皮の部分を食べ過ぎるとお腹を壊したりするのだけれど、とにかく鰻が好きなのである。永井荷風センセイも鰻が好物だった。川端康成センセイも、きっとご近所のこの「つるや」で二段重を食したに相違ない。鰻を食べると名文が書けるようになる気がするのである。なんともオメデタイお話である。
リ・ライフ
どんな仕事、どんな職業にも、人には絶頂期というものがある。残念ながらその時期を過ぎると、能力もセンスも下降線を辿っていく。出来得ることなら葛飾北斎のように80歳を過ぎてもバリバリの現役画家でいたいし、伊藤人誉のように「九十歳を過ぎてから却って小説が書けるようになりました」などと言ってみたいものだが、そうした特殊な天才を別にすると、たいがいは40歳を過ぎてしばらくしたあたりでピークを迎える。スポーツ選手などはそのピークが10年近く早い場合もある。で、我々はそうした年齢を過ぎた後、これからの自分の人生をどうエディトリアルしていくのかに苦悩するわけである。会社員であれば、マネジメントに転向する、あるいは同じ仕事をしながらも後輩の育成にシフトしていく、というのがお決まりのパターンであろうか。あるいは、今までの資産を生かしつつもまったく異なる職業に転向する場合もあるだろう。所謂第二の人生というわけである。人生の後半を面白くするのは、このシフトチェンジをいかに自分が納得いくレベルで行えるかにかかっているような気がする。自分の1stステージにおける資産が枯れ切ってからでは遅い。いつまでも今までの自分にしがみついていては、たぶん、あまり良い結果は得られない。
2015年に公開されたアメリカ映画で「Re・ライフ」(原題、Rewright)というのがある。主演ヒュー・グラント。かつてのハリウッドのスター脚本家が歳を取ってから売れなくなって、第二の人生を教職に見いだす話である。
ヒュー・グラントはこの手の役回りを演じさせると本当にいい味を出す。2007年の「ラブソングができるまで」も同じような役回り。(ま、監督と脚本が同じマーク・ローレンスだし)こちらは、かつての花形ロックンローラーがもう一度ヒット作を創り出すお話。
「Re・ライフ」をもう一度見直してみた。つくづく人生の滋味に溢れた映画である。第二の人生はあくまで第二の人生。決して絶頂期が甦るわけではない。でも、歳を取ったからこそ新たに出来ること・感じられることは、この世の中にはまだまだたくさんある、と思うのだ。
dizzy
autumn leaves
無頼派
西川美和さんの文章が好きである。「ゆれる」も、先月から映画のロードショーが始まっている「永い言い訳」も。以下は、「永い言い訳」のラスト間近の文章である。
心のどこかがそうやって冷えている日に限って、酒場の人々は楽しく、女は優しく、酒はすいすい。いままで鼻もひっかけてくれなかった店一番の美人がこんな日に限って、店が終わったらツムラセンセイお薦めのラーメン屋に行ってみたいなぞと言う。ラーメンなんぞ食うものか。腕を組み、幸夫の家に直行だ。二の腕に、あたたかくて、やわらかい女の乳が当たっている。ジングルベール。ジングルベール。えっへへへ。心置きなき我が人生、身軽なり。ばんざーい。ばんざーい。ばんざーい。
死ぬって、迷惑かかるんだ。物理的にもそうだけど、人の気持ちに、迷惑かかる。
あのひとが居るから、くじけるわけにはいかんのだ、と思える「あのひと」が、誰にとっても必要だ。生きて行くために、想うことの出来る存在が。つくづく思うよ。他者の無いところに人生なんて存在しないんだって。人生は、他者だ。
まるで、檀一雄が現代に生きてたら書いてくれそうな無頼派な文章だ。これを1970年代生まれの女性の脚本家、映画監督が書いてくれる。もうこれはアッパレとしか言いようがない。当分、彼女の書いたものを読み続けることになりそうだ。次は「その日東京駅五時二十五分発」あたり。