naotoiwa's essays and photos

2016年10月



 ハロウィーンの夜である。風もないし昨日ほどには寒くない。ヨーロッパみたいに空気が乾燥した秋の夜。六本木ミッドタウンの富士フィルムスクエアに牛腸茂雄展を見に行った。一見何気ないポートレート、自然な構図のコンポラ写真。でも、そこには見るひとと見られるひと、自分と他人、じっと見つめていると次第に息苦しくなるような緊張感が潜んでいる。例の双子の姉妹の写真なんてまさに日本のダイアン・アーバスだ。

self and othes

 見終わってからしばらくの間、ミッドタウンの中を散策することにする。ブリッジを渡ってリッツカールトンまで行く。その後、いくつかの洒落たレストランやブティックを巡る。
 六本木ミッドタウン。ここはなんて特別な場所なんだろうといつも思う。敷地内の空気が、香りが違う。なにか特別な空調でも施してあるのだろうか。そして、照明が違う。すべてが完璧にソフィストケイトされて上質なのである。もちろんそのためにコストが怖ろしく高く設定されているはず。よっぽどの資産持ちじゃないとここのレジデンスには住めない。東京に大地震が起きたとしても建物の耐震は完璧だし、各戸にそれぞれ備蓄倉庫が用意されていて一ヶ月ぐらいは問題ないのではないか。そんなことを思いながら六本木通りに戻る。西麻布まで歩くことにする。

 ヒラリーとトランプのマスクを被ったカップルが歩いてくる。体中から流血した女の子たちが徒党を組んで歩いてくる。今夜はハロウィーンの夜である。

Buffet

G-Zuiko Auto-W 20mm f3.5 + NEX-7


 Buffetのある部屋。




 ここに来て、急に寒い日が続くようになった。都心は師走並の気温だという。窓の外には冷たい雨が降っている。

 「雨音に気付いて、遅く起きた朝は」は名曲「12月の雨」。私はユーミン世代ではないが、1974年発売のアルバム「ミスリム」はご多分に漏れず持っている。買った当時は中学生。そして、この伝説的なアルバムの中で一番好きだったのが「12月の雨」。

 雨音に気付いて 遅く起きた朝は まだベッドの中で 半分眠りたい
 ストーブを付けたら 曇った硝子窓 掌で擦ると ぼんやり冬景色

 初めて聞いた時、なんてリリカルな世界だろうと思った。自分もとっとと早く大人になって、東京のアパアトでひとり暮らしを始めたいと思った。そうすればこうしたリリカルな生活が送れるのだと。

 以来、この年になるまで、一番好きな季節は12月のままだ。クリスマスが近くなると慌ただしくなって来るから、12月も初旬から中旬あたりがいい。

 最近、モデルでシンガーソングライターのchayさんがこの曲をカヴァーして、それがテレビ番組の主題歌になっているのを聞いてみたが、あのリリカルな歌詞が少しくぐもったシャウトする歌声に包まれてナカナカの出来映えである。



 それにしても、この曲がリリースされたのは今から42年前。42年!これはかなり天文学的な数字である。こちらも歳を取るはずである。おかげさまで今では「雨音に気付いて、遅く起きた朝は、まだベッドの中で、半分眠りたい」とはならず「雨音に気付いて、今日も早く起きた朝は、とりあえずベッドの中で、まだ眠ったふりをしていたい」というのが現状である。早朝覚醒である。。。

 2016年の現在、1974年当時に比べれば我々は極めて便利で快適な生活を送れるようになったが、リリカルさは決定的に不足している、と思うのだが。

barber

Kinoplasmat 25mm f1.5 + E-PM1


 a boy @barber.


silhouette

DG.Summilux 15mm f1.7 ASPH. + GM1


 silhouette.


girls

Kinoplasmat 25mm f1.5 + E-PM1


 faces of girls.


大仏

Tessar 75mm f3.5 of Rollei Standard + Tmax400


 face of Buddha.




 国立西洋美術館に「クラーナハ展」を見に行った。クラーナハ…クラナッハ、大好きなのである。大学生の頃からの筋金入りのファンである。

クラナッハ

 クラナッハというと、一般的にはドイツルネサンスの代表的な画家という位置づけてあろうが、私の中では典型的なマリエリスムの作家のひとりである。あのスレンダーな肢体、S字型曲線、冷笑的な表情、アレゴリカルな題材。…お恥ずかしい話であるが、大学の学位論文のうちの何ページかは、たしかクラナッハについての記述で埋めた記憶がある。
 世界遺産に登録されたこともあってか、平日でも国立西洋美術館の受付には観光バスで乗り付けた人たちが押し寄せている。でも、彼らが見るのは常設展だけ。クラナッハ展の会場は比較的空いていた。おかげで「ヴィーナス」も「ルクレティア」も「アダムとイブ」も「正義の寓意」も「ユデットとホロフェルネス」も、じっくりと間近で見ることができた。
 クラナッハの作品以外にも、ピカソやデュシャン、マン・レイらがクラナッハへのオマージュとして創作したいくつかの作品が展示されていてこれらがとても興味深かった。極めつけは現代美術家のレイラ・パズーキ氏のインスタレーション(コンセプシャルアート)。これは「正義の寓意」の模写を中国の100人の職業画家たちに6時間の時間制約を設けて描かせ、それを壁一面に並べたもの。大量生産によるリアルとフェイクの境界について問うインスタレーションだ。ちなみに、16世紀のクラナッハ自身も自分の子供達を含めた弟子の工房で、肖像画の複製等の大量生産を始めた張本人でもある。そうした行為も含め、クラナッハという画家は極めてマリエリスティックな人物なのである。

 さて、私とほぼ同じペースで鑑賞されている車椅子の方がいらした。年の頃は75歳ぐらいで、きれいなロマンスグレーの髪をオールバックに撫でつけ、粋なワインレッドのシャツを身につけている。時々絵画鑑賞用の一眼の望遠鏡をシャツのポケットから取り出しては、「ヴィーナス」や「ルクレティア」の子細を解読し、その都度ノオトに鉛筆でなにかメモ書きされている。いいなあ、と思った。自分もこういう70歳以上になりたいものだと思った。

face

Kinoplasmat 25mm f1.5 + E-PM1


 face.


measure

G-Zuiko Auto-S 40mm f1.4 + PEN FT + LOMO100


 measures.


このページのトップヘ