2016年09月
rain drops
晩年
若い頃は、ずいぶんとデカダンなものにばかりに憧れていたようで、デビュー作に「晩年」を書いた太宰、題名もズバリ「暗い旅」の倉橋由美子、欧米ではオスカー・ワイルドやモーリヤックに耽溺し、もちろん三島の豊饒の海は何度も読み返した。絵画で言えば、好きなのは古いところではブロンズィーノやポントルモといったマニエリスト、時代が下ったところでヒュースリーやベックリン、そしてモロー、ビアズリー。もちろん外光で燦めく印象派の絵になんか興味はない。ルノワールは言うに及ばずセザンヌの良さもまだわかってはいない。音楽で言えば、これは断トツでマーラー、次いでショスターコーヴィッチ。シューベルトの転調のアンニュイさは好きだが、モーツアルトはいまひとつ、といった感じである。
そうした本や絵画や音楽ばかりを見たり聞いたりして、夢想家でアンニュイで、いつも物語性のある風景や状況に身を置くことばかり考えながら20〜30代を過ごした。周りの友人たちは気を遣って「アイツは耽美派だからなあ」と言ってくれたりもしたが、とにもかくにも感じの悪い青年だったのである。
で、そうした若気の至りは、今から思うと、想像力の欠如以外の何ものでもなかったわけで、物語性のある場所にしか興味を示さないということは、逆に自分の力で新しい物語性を紡ぎ出そうというエネルギーがないことの証明なのである。だからこそ、既存の物語性に頼りたくなるわけで、ああ、そうか、今こうして書いてて気がついたが、耽美派というのは想像力が欠如した状態を言うのである。想像力がないがゆえに、既存の美しきものにただただ受け身で依存している状態、それが耽美派なのである。
と、50歳をとうに過ぎた今ではもちろんそのくらいのことはわかってはいるのだが、まだまだやっかいなことは、時折「永遠なるもの」の残像というか化身のようなものがふいに現れる瞬間があって、それを捉えて形にすることがやっぱり自分の使命のようで、それを放棄したら、どこかのポイントで間違いなく人生はただ流れていってしまう。…まだまだそうしたやっかいな病がこの身のどこかに潜んでいるのである。
ただ、ここ十数年で間違いなく成長できたと思っていることは、アンニュイに耽美派しているヒマがあったら、毎日ガムシャラに新しい表現の開発や、今までの自分の感受性を体系化することに一秒でも多く時間を使いたいと思えるようになったこと。それはおそらく、当時に比べれば圧倒的に残り時間が少なくなってきている事実を自覚しているからであろう。晩年という言葉は若い頃だからキザに言えるのであって、年を取ってから晩年と呟いても、それは洒落にもなんにもならないのである。
P.Angenieux 25mm f 0.95 + E-P5
ありがたや、ニッポン。
普段はメールやSNSを使って、どんな書類も瞬時にどこにでもデリバリーできてしまうが、どうしてもプリントアウトした書類をリアルにどこかに届けなくてはならないとなると、これはなかなかどうして、時間と手間とお金がかかるものである。例えばバイク便。これ、便利だけどめちゃくちゃ高い。書類一枚だろうとなんだろうと移動距離に比例して料金が決まるから、あっさり1万円を超える。書類一枚を東京近郊まで運んでもらうのに1万円である。1万円あれば、三島まで行って桜屋あたりでうまい鰻が食べられるかもしれない。鎌倉まで行って名店「和さび」で寿司が食べられるかもしれない。(一貫ぐらいならば)まあ、それはさておき(どうやら私は今、無性に鰻か寿司が食べたいようである)、ようはバイク便はかなり割高になってしまうのである。安いのはもちろん宅急便なのだけれど、さすがに前日の夕方までには出さないと無理だと思っていたら、こんなサービスがあった。早朝5時までにコンビニに行って、当日到着便で申し込めばその日の16時までに必着!とのこと。これはすごい。ありがたやありがたや。
日本という国。実は私はさほど好きではないけれど、でも、こうした物流や交通機関のパンクチャルさには頭が下がる。外国人観光客が日本に来て驚くのは、「おお、電車がNAVITIME通りに寸分の狂いなくプラットフォームに到着する!」ことらしい。さもあらん。宅急便も問い合わせ番号を入力すれば瞬時に現在の配送状況がわかる。りっぱな国である。やっぱりずっとこの国に住み続けようかしらん、などと思いながら朝が明けた。たった今、その朝5時までの当日宅急便を出してきたところである。実際は5時を15分ぐらい過ぎていたのだが、「もうデータは入力できませんけど、まだ集荷来てないから、なんとか頼んでみます」とコンビニの店員さん。ありがとうございました。やっぱりニッポンはおもてなしの国である。フランスあたりじゃこんなことは絶対に起こりえない。ありがたや、ニッポン。
C Planar 80mm f2.8 nonT + 500C + TX400
ambush
summer ends
island girl
dearest
かわうそ
今日、世界は死んだ。
「今日、世界は死んだ。もしかすると昨日かもしれない。」なんてフレーズで始められたら、これは見に行かずにはいられない。
リニューアルオープンした東京都写真美術館で開催されている「杉本博司 ロスト・ヒューマン展」。ちなみに冒頭のフレーズは、カミュの異邦人に対するオマージュだ。「今日、ママンが死んだ」。
世界の終焉を告げる33のシナリオ。それを見届ける33名の直筆の原稿用紙。例えば「コンテンポラリーアーティスト」のコーナーでは以下のようなシナリオが掲載され、そこにはウォーホールの例のキャンベルスープが羅列してある。
「今日、世界は死んだ。もしかすると昨日かもしれない。後期資本主義時代に世界が入ると、アートは金融投機商品として、株や国債よりも高利回りとなり人気が沸騰した。若者達はみなアーティストになりたがり、作品の売れない大量のアーティスト難民が出現した。ある日、突然、アンディー・ウォーホルの相場が暴落した。キャンベルスープ缶の絵は本物のスープ缶より安くなってしまった、そして世界金融恐慌が始まった。瞬く間に世界金融市場は崩壊し、世界は滅んでしまった。アートが世界滅亡の引き金を引いた事に誇りを持って私は死ぬ。世界はアートによって始まったのだから、アートが終わらせるのが筋だろう。」
会場は三つのパートに分かれている。圧巻はやはり「廃墟劇場」シリーズの写真。廃墟となったアメリカ各地の劇場で、スクリーンを張り直してそこに映画を投影し、大判カメラで上映一本分の光量のみで長時間露光して撮影した作品群。これは写真好きにはたまらない。デジタルカメラでは絶対に為し得ない作品だ。
杉本博司さんの作品は直島等でもいくつも見ているが、その「企み」にはいつも恐れ入る。まさに現代のマルセル・デュシャンなのだろう。