2016年08月
water pot
guardian
sunflower
breast
リアリズム
実は、リアルという言葉がキライなのである。広告クリエイティブの講義なんかで「イマドキの広告はリアリティこそが命です!」なーんて言ったりしているけど、昔からリアルな写実派がキライなのである。絵画にしても写真にしてもブンガクにしても。(ちなみに私小説というのはリアルではありません。よってキライではありません)
リアルってなんだか暑苦しいなあ、でも、それってどうしてなんだろうとずっと思っていたが、この件についても「まなざしの記憶」のあとがきで著者の鷲田さんが鮮やかに説明してくれていた。植田正治さんの写真についての批評の一節である。
ほんとうは観念的な強迫でしかない「リアリズム」を遠ざけ、リアルなものへのべたつきをも排した植田さんの手法とは、リアルなもののただなかに息づくほんとうの「普遍」を抽出しようとするものであろう。
そうなのだ。リアリズムの方こそ観念的なのである。しかもそれを強要するのである。一見すると概念的に見えるであろうはずの植田さんの写真や、キリコやデルフォーやマグリットが描く形而上学的な絵画の方が、実はずっとずっと軽やかで伸びやかで自由で普遍的なのである。ああ、ようやくスッキリした。今まで自分が本能的に好きだったものたちに共通するその理由がはっきりとわかってきた。ありがとうございます、鷲田先生。
Summaron 35mm f2.8 L + M8 + Infrared filter
coffee
お盆
絵馬
金とそれ以外
リオオリンピック。連日日本人選手のメダル奪取が続いているが、彼ら彼女らの受賞後のインタビューを聞く度に、アスリートたちのアッパレに心を打たれる。どんな色であれメダルが取れること自体素晴らしい快挙なのに、金以外のメダリストたちはほぼ全員、喜び以上に悔しさや無念さを口にする。金とそれ以外は天国と地獄の違いがあると言っていた選手もいるし、もしも金が取れなかったら、銅は金と同じと書いて銅、銀は金より良しと書いて銀、などという慰めの言葉を考えていたという親族の方もいる。
我々の世界でも、広告賞などの舞台においてこの金銀銅は日常茶飯事であるが、カンヌ等海外の名だたるアワードでは、銅メダル取れたら万々歳、そこまで行かなくともショートリスト(入賞)に至りさえすれば、日本に凱旋してみんなに賞賛され、いやー、ゴールド取りたかったんですけどねえ、やはりそこは欧米と日本とではまだまだクリエイティブのフォーマットが違いすぎるというかなんというか、…などといった言い訳をして、ブロンズ受賞でけっこうニコニコしているのである。満足なのである。ゴールドを逃したと涙を流す場面にはなかなかお目にかかれないのである。
だから、アスリートたちのこの金メダル、一等賞のみにこだわるタフさ、一途さ、それを支えているはずの「自分はこれだけ努力をしたのだから」という自信の強さに感服するのだ。そうなのだ、どんなことでも勝負事は勝つか負けるか、その二者選択。一等賞以外はすべて負けなのである。会社の出世競争だってそうだ。副社長は社長にはなれないのである。次期社長は現社長の子飼いの現専務あたりがなるものと相場が決まっている。
アスリートたちの大舞台はしかも四年に一度きり。それだけ今年ゴールドを逃した悔しさは、「来年またがんばればいいさ、なにごともとりあえず今年一年はこれで安泰」などと思っている我々一般人の比ではなのかもしれない。