naotoiwa's essays and photos

2016年08月

between

GR 18.3mm f2.8 of GRⅡ


 between you and me.


fox faces

GR 18.3mm f2.8 of GRⅡ


 fox faces.


草履

FE Sonar 55mm f1.8 + α7s


 健康の秘訣。


mini cars

HEXANON AR 50mm f1.4 + α7s


 mini cars.




 巡り巡って、私はまたこの街に戻って来ることになったのだ。

hometown

Summicron 40mm f2 + CL +Acros100

 ここは私が東京で初めてひとり暮らしを始めた街であり、自分が将来何者になるのかを悶々と考え続けた街である。ジャズ喫茶と小さなアングラ劇団が至るところに点在していたこの街で、私はずいぶんとたくさんの本を読み、ずいぶんとたくさんの映画を見た。あの頃、この街には自由が際限なく澱んでいて、それが自分の人生のいったいどこに繋がっているのか、どこにたどり着くのか、当時の私には皆目見当も付かなかった。それでも不思議と私に焦りのような気持ちは起こることもなく、おそらくそれは、この街の南側に広がる広大な公園の緑の濃さと水の匂いのせいだったのかもしれない。

 それから三十余年が経過して、私はまたこの街に戻って来ることになったのだ。なにかを成し遂げてと言ってしまってもいいような気もするし、その実なにひとつ進歩などしていないとも思える。でも、そんなことはどうだっていいのだ。人生の評価なんて物差しの尺度ひとつでどうにでも変わってしまうものだし、時間の進み方自体、私たちが思っているほど均一で平等なものでもない。幸いなことに、まだ命に関わる大病に罹患したこともなく、おかげでまだ死ぬ予定もなく、私はまたこの街に戻って来ることになったのだ。ただそれだけのことである。そこにはなにかしら因縁めいたものがあるのかもしれないし、あるいは自分自身で知らず知らずのうちにそうした因縁を創り出していたのかもしれない。

 昔々、この街に暮らしていた時に書いた駄文が引き出しの奥に残っている。私は試しにその続きにそろりそろりと書き連ねてみることにした。すると、思いがけず文章はすらりすらりと繋がり始めた。何の違和感もなく、自分自身、何の成長も感じさせられることもなく。

fishes

Ai Nikkor 50mm f1.2 S + α7s


 鯛と目刺し。




 独立してから今まで、ずっと心に決めていたことがひとつだけある。それは、頼まれた仕事はゼッタイに断らない、ということだった。
 五十も半ばに差し掛かったら、自己実現願望丸出しで自分からしゃしゃり出ていくのだけは止めにしたい。自分から求めるのではなく、相手から求められる存在でいたい。特に若い世代から。そして求められたら、自分の今までに培ってきたことを彼ら彼女らにどれだけ丁寧に伝えることができるだろうか。そればかりを考えてきた。

young man

Summilux 50mm f1.4 ASPH. + M9-P

 若者たちといっしょに過ごすのは楽しい。これは掛け値なく楽しい。年寄り(自分も含めて)はイヤだ。ひがみっぽくてイヤだ。今の若者たちは自分たちの世代に比べると妙に安定志向で冷めているところもあるが、でもやっぱり破天荒な熱量が体の内部に渦巻いている。(余談だが、清水邦夫作の昔の戯曲で「夢去りて、オルフェ」という作品があって、中年不良教師を演じていた平幹二朗が何度も「若い世代よ、ゆらめく炎」と呟く場面があったのを思い出す)
 若い世代、ゆらめく炎。…そんな彼ら彼女らに信頼されていっしょに仕事をし続けるためには、自分がどれだけ彼ら彼女らが持っていない情報とモノとカネを提供できるかにかかっている。それを経験と言ってしまうのはあまりにも容易い。強いて言うなら「アップデートし続けている自分の経験」を提供しなくてはならないのである。それが出来れば自分自身の自己実現も前に進む。求めよ、さらば与えられん、ではなく、与えよ、さらば求められん、である。

 ということで、特に自分より若い世代のひとから頼まれた仕事は今までゼッタイに断らないようにしてきたのであるが、ここに来てついに、ごめんなさい、を言ってしまったのである。ごめんなさい。ううむ、今月はどうやっても時間が足りないのである。外注せずすべて自分でフィニッシュアウトしている関係上、この物理的かつ時間的限界はどうしようもないのである。ごめんなさい。今回のこのタイミングだけ、どうしても時間が作れません、と謝るしかなかった。

 どうしようか、やっぱり今後はアシスタントの人を雇ってでもキャパシティを広げておくべきか。正直言って悩んでいる。その方が求められたことの対応力が増すし、自分自身もラクには違いないんだけれど、それが拡大していくとまた元の木阿弥、昔に逆戻りしてしまう危険性がある。相手から求められたことに対して、もう一度きちんと自分のアタマと手で責任を持ってオーサリングしていきたい。そう思って組織を離れることにしたのだけれど。ううむ、それにしても時間が足りないのである。どうしよう。。。

midnight scandal

GR 18.3mm f2.8 of GRⅡ


 midnight scandal.


evening scandal

FE Sonnar 55mm f1.8 + α7s


 evening scandal.



 芥川賞を受賞した村田沙耶香さんの「コンビニ人間」、売れている。読みやすいし、でも読めば読むほどに「この人すんごい感性だなあ」と圧倒されるし(あの山田詠美が絶賛!)そして、コンビニは日本の現代人にとって今や最も身近な存在であるはずなのに、それをここまで徹底して描き切った作品は実はこれが初めてなのではないかと思うのだ。

コンビニ人間

 改めて、日本のコンビニ、つくづく不可思議な存在だと思う。あの24時間照らし出される安っぽい蛍光灯の明かり。どんなに古びたビルの一角でも、清潔そうに見える均一的なリノリウムと棚に統一され、あっという間に開店の運びとなる。定員の半分は今や外国人で片言のニゴンゴで話しかけてくる。決してサービスがいいわけでもないし、決して値段が安いわけでもない。ましてや居心地のいい空間では決してない。でも、昼夜を問わずひっきりなしに客は訪れる。お小遣いの少ない学生も、近くの工事現場で働くおじさんも、汗臭いタクシー運転手も、かと思うと、最高級のBMVのカブリオレで乗り付ける金持ちも、帽子とサングラスでカムフラージュしているけど、「ねえねえ、あれって〇〇じゃない?」っていつもみんなに気づかれている有名な芸能人も、みんな平等に、列に並んで、弁当やペットボトルやビールやファーストフードやドーナツや洗剤やトイレットペーパーや煙草を買っていく。
 不可思議な場所である。整然としているのか雑然としているのか、高級なのか低級なのか、お洒落なのかダサイのか、不可思議なマーケティングで成立しているビジネスである。それが今や日本中に張り巡らされているのだ。水道管や電線やガス管と同じくらいにもはやインフラ。そのインフラがそこで働く店員の体内にまで浸潤してしまったお話、それが「コンビニ人間」なのだろうと思う。

 ところで、私はというと、それでも未だにコンビニが好きになれない。とにもかくにもあの蛍光灯の明かりがキライなのだ。明るくて貧相にヒトを晒し出すあの明かりがどうしたって好きになれないのだ。でも、最近のコンビニ商品にはけっこう美味なものが多い。百円コーヒーは言うに及ばず、3−4枚で400円近くする高級ハムもうまいし、先日セブンイレブンで買ったコーヒーゼリーなんか、どこの専門店のものよりもおいしかったくらいだ。そういう商品だけを、帽子とサングラスで顔を隠蔽して買いに行く。もちろん誰も芸能人と勘違いはしてはくれないけれど。…ん?こんなにレジ並んでいるのに店員さんひとりしかいないじゃないか。こんな時、「コンビニ人間」の主人公みたいな女の人が、明るくハキハキした声で「いらっしゃいませ!」と言いながらバックヤードから出て来て欲しいものである。

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