naotoiwa's essays and photos

2016年05月

statue

Norton 35mm f1.4 MC + M9-P


 lace curtain.




 色とりどりの薔薇の花が咲いている。レッド、ピンク、オレンジ、イエロー、ブルー、そしてホワイト。香りもさまざま。甘く濃厚に香るのは遠くシリアの彼方からやってきたヨーロッパ系品種、上品で優雅な紅茶のような中国系品種。他にもアプリコットやピーチに似た香りのものもある。

rose1

 それぞれの花弁に鼻先を近づけてみると、花の色と香りのイメージが同期することもあれば、まったくもって裏切られることもある。黒ずんだ地味な花びらから意外にも官能的な匂いが漂ってきたり、華やかで大ぶりのピンクの花弁なのにほとんど無臭だったり。それらが混ざり合い重なり合い、あたりはえも言われぬ豊潤な空気に包まれている。

rose2

 風は止んでいる。雨も上がった。五月終わりの午後六時。空も柔らかなローズピンクに染まり始めている。家の白壁もコンクリイトの路面も。…さまざまな薔薇の色と香りに包まれながら、私は暮れかかる道の向こうの外灯の明かりを眺めやる。そして、ぼんやりと近しい未来のことを「想い出す」。

rose3


all original photos taken by Jupiter-8 50mm f2 L + M9-P

rose

SMC Pentax 8.5mm f1.9 + Q-S1


 a yellow rose.




 是枝監督の「海よりもまだ深く」を見てきた。なりたかった大人になれなかった大人たちの物語。



 台風の夜、タイトルにも起用されているテレサ・テンの「別れの予感」が流れる場面が印象的。

 泣き出してしまいそう 痛いほど好きだから どこへも行かないで 息を止めてそばにいて
 身体からこの心 取り出してくれるなら あなたに見せたいの この胸の想いを
 教えて 悲しくなるその理由 あなたに触れていても 信じること それだけだから
 海よりもまだ深く 空よりもまだ青く あなたをこれ以上 愛するなんて わたしには出来ない

 もう少し奇麗なら 心配はしないけど わたしのことだけを 見つめていて欲しいから
 悲しさと引き換えに このいのち出来るなら わたしの人生に あなたしかいらない
 教えて 生きることのすべてを あなたの言うがままに ついてくこと それだけだから
 海よりもまだ深く 空よりもまだ青く あなたをこれ以上 愛するなんて わたしには出来ない




 私は是枝監督とは同世代なので、彼がこの曲をフィーチャーした想いは理屈抜きでわかる。1987年の名曲だ。作詞、荒木とよひさ、作曲、三木たかし。詩があまりに切なくて、女性にこんなことを言われたら怖ろしくてたまらないだろうなあと思いつつも、それでいて曲想が柔らかくてふんわりと明るくて、当時何度も聞いていた覚えがある。だから今でも歌詞はスラスラと出てくる。中森明菜によるカヴァージョンもなかなか聴き応えがあったように記憶している。

 なりたかった大人になれなかった大人たちの物語。「パパはなにになりたかったの?なりたいものになれたの?」あるいは、「幸せってのはね、何かをあきらめないと手にできないものなのよ」

 さて、自分はどうだろう。たぶん、自分も「まだ」だ。この年を過ぎて「まだ」と言うのは相当に勇気がいることではあるが、ま、所詮、人生なんてものは死ぬその瞬間までなりたい自分にはなれないままの、夢半ばのものなのだと思うのだけれど。

in rainy day

GR 18.3mm f2.8 of GRⅡ


 shooting in rainy day.


eye

Cine-Zuiko 13mm f1.8 + Q-S1


 eye.




 久しぶりに金縛りに襲われた。2年ぶりぐらい。金縛りと言えば誰かが胸の上に覆い被さってくるのがお決まりのパターンだが(フュースリの描く「夢魔」の如く)、今回はベッドの端に伸ばしていた私の左手を誰かが強く引っ張っるのだ。相手が誰であるか、その時の私には分かっている気がした。その手をようやくのことで振り解き、心身ともに覚醒した後にはすっかり忘れてしまっていたけれども。

夢魔

 で、その翌日、新潮文庫から復刊したトマス・ハーディの短編集を読んでいたら、偶然にも同じような場面に出くわした。「呪われた腕」である。

 夢魔はじっとローダを見つめながら、いったんは寝台の裾のほうへ引き下がったが、またじりじりとにじり寄ってきて、もとのように胸の上へすわり込み、先ほどと同じように左手をちらちら見せつけた。息苦しさにあえぎながら、ローダは必死の思いで右手を振り上げ、追ってくる妖怪の無礼な左腕をつかまえ、思いきり床へたたきつけた。と同時に、低い叫び声をあげて彼女自身ががばとはね起きた。

呪われた腕 トマス・ハーディ 河野一郎訳

 この後、ローダの夢の中に現れた恋敵の女の腕には奇怪な痣が現れることになる。私の夢に出て来て私の左手を引っ張った相手の掌にも、妙なものが出来たりしないといいのだけれど。身に覚えのある方、お気を付けくださいw

ハーディ

 村上柴田翻訳堂シリーズ、現在4作品。これからも続々と新刊&復刊予定とのこと。

melancholic

Jupiter 50mm f2 L + Ⅱf + Acros100


 a man melancholic.


buddha

Takumar 55mm f2 + EOS1n + Lomo400


 crystal buddha in the rain.




 能古島に渡ったのは、実は今回が初めてである。こんなに何度も仕事やプライベートで博多の街に来ているのに。博多から唐津や柳川まで足を伸ばすことは幾度もあった。志賀島にも渡ったことがある。漢倭奴国王。それなのに、姪浜からフェリーでたった10分の能古島にだけは渡ったことがない。たぶん、あの歌碑を見るのが怖かったのだ。

 能古島と言えば、作家檀一雄の終の棲家があった場所。島の北側には絶筆となった「モガリ笛 いく夜もがらせ 花ニ逢はん」を記した歌碑が立っている。この辞世の句があまりに切なくて。その歌碑が立っている場所から対岸の小田の浜が見えると聞いて、そのシチュエーションがあまりにやるせなくて(小田の浜は若くして死んだ前妻リツ子さんと作家の思い出の場所)今までどうにも訪れるのを躊躇していた。

 柳川の福厳寺にあるお墓は二度ほど訪れたことがある。ここに記されている「石の上に雪を 雪の上に月を やがてわがこともなき 静寂(しじま)の中の 憩いかな」は大丈夫。すでに浄化されている。

雪の上に

 でも、「モガリ笛 いく夜もがらせ 花ニ逢はん」はダメだ。リアル過ぎる。

 地下鉄姪浜駅北口を出てバスには乗らず、フェリー乗り場まで歩いて行くことにした。途中、住吉神社のあたりに旧唐津街道の古い町並が残っている。姪浜漁港を突っ切り約20分で到着。タイミング良くすぐに乗船時間となった。
 あっと言う間に能古島に着いた。でも、また雨が降り出してきた。船着き場から海岸沿いに白髭神社のある方向へ傘を差しながら歩く。途中、能古うどん製麺所の所を右折して坂を登っていくとしばらくして旧居跡(現在は長男の太郎さんの住居になっている)にたどり着く。ここにも歌碑がある。「つくづくと 櫨(はじ)の葉朱く 染みゆけど 下照る妹の 有りと云はなく」…リツ子さんが亡くなった年に詠まれたものだ。大伴家持の「春のその 紅にほふ桃の花 下照る道に 出で立つをとめ」の本歌取り。

下照る

 この詩句もせつない。けれどもホノボノしている。小高い丘の途中のその場所から、樹木越しに百道の福岡タワーあたりが雨に霞んで見える。まわりにはジャスミンの花の香が甘く漂っている。

檀一雄旧居跡

GR 18.3mm f2.8 of GRⅡ

 さて、問題のもうひとつの歌碑のところまで行くにはバスに乗らなくてはならない。それは、島の北側のアイランドパークの遊歩道の中にある。バスの時間を確認する。次は30分後。その間、能古博物館近くの登り窯や万葉歌碑でも見ていようと永福寺あたりを過ぎた途端、急に雨脚が激しくなった。突風が吹き荒れる。油断していたら傘の骨が一本折れてしまった。風がヒューヒュー鳴っている。五月なのに、まるで冬の木枯らしみたいな音。も、モガリ笛だ。…
 急にココロが萎えた。やはりあの歌碑を見に行くのは止めにしよう。今日は見合わせよう。せめて風の全くない穏やかな日に改めることにしよう。

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