昨年末からずっと、また漱石を何冊か読み返しているのである。クラシック音楽好きがモーツアルトに行き着くごとく、日本近代文学好きは最終的に漱石に行き着くのであろうか。中でも「三四郎」はやはり最高である。美しく洒脱な日本語、ピクチャレスクな情景の数々。そしてなによりも、恋愛心理小説として珠玉の一冊である。ヒロインの里見美禰子がタマラナイ。中学生の時に初めて読んで以来、彼女は私の中で femme fatale ナンバーワンの座をずっとキープし続けている。

 里見美禰子。西洋モダンでありながら極めて日本的。官能的でありつつ安っぽい媚びは決して売らない。こういう女にこんな風に先を歩かれて、こんな風に雲の話でもされたら、大概の男は参ってしまうだろう。

 この女はすなおな足をまっすぐに前へ運ぶ。わざと女らしく甘えた歩き方をしない。したがってむやみにこっちから手を貸すわけにはいかない。空の色がだんだん変ってくる。ただ単調に澄んでいたもののうちに、色が幾通りもできてきた。透き通る藍の地が消えるように次第に薄くなる。その上に白い雲が鈍く重なりかかる。重なったものが溶けて流れ出す。どこで地が尽きて、どこで雲が始まるかわからないほどにものうい上を、心持ち黄な色がふうと一面にかかっている。「空の色が濁りました」と美禰子が言った。

 でも、三四郎の方も負けてはいない。

 今度は三四郎が言った。「こういう空の下にいると、心が重くなるが気は軽くなる」「どういうわけですか」と美禰子が問い返した。三四郎には、どういうわけもなかった。返事はせずに、またこう言った。「安心して夢を見ているような空模様だ」

 彼らはいつも、まるでラファエロ前派の絵画のように神話めいたピクチャレスクな場面で見つめ合う。

 三四郎がなかば感覚を失った目を鏡の中に移すと、鏡の中に美禰子がいつのまにか立っている。下女がたてたと思った戸があいている。戸のうしろにかけてある幕を片手で押し分けた美禰子の胸から上が明らかに写っている。美禰子は鏡の中で三四郎を見た。三四郎は鏡の中の美禰子を見た。美禰子はにこりと笑った。

 そして、以下が一番有名な別れの場面である。…里見美禰子。自立した女。物事をはっきり見極める女。でもどこか投げやりな女。迷羊。

 女は紙包みを懐へ入れた。その手を吾妻コートから出した時、白いハンケチを持っていた。鼻のところへあてて、三四郎を見ている。ハンケチをかぐ様子でもある。やがて、その手を不意に延ばした。ハンケチが三四郎の顔の前へ来た。鋭い香がぷんとする。 「ヘリオトロープ」と女が静かに言った。三四郎は思わず顔をあとへ引いた。ヘリオトロープの罎。四丁目の夕暮。迷羊。迷羊。空には高い日が明らかにかかる。

 女はややしばらく三四郎をながめたのち、聞きかねるほどのため息をかすかにもらした。やがて細い手を濃い眉の上に加えて言った。「我はわが愆を知る。わが罪は常にわが前にあり」


 先週末、久しぶりに本郷界隈を歩いてみた。赤門から東大本郷キャンパスに入って心字池に下る。

三四郎池

Summaron 35mm f2.8 Lmount + M8


 女はこの夕日に向いて立っていた。三四郎のしゃがんでいる低い陰から見ると丘の上はたいへん明るい。女の一人はまぼしいとみえて、団扇を額のところにかざしている。顔はよくわからない。けれども着物の色、帯の色はあざやかにわかった。白い足袋の色も目についた。鼻緒の色はとにかく草履をはいていることもわかった。

 去年、東京藝大で「夏目漱石の美術世界展」を見た時、現代の画家がこの三四郎池のほとりでの出会いの場面を想像して描いた絵(佐藤央育作 推定試作《森の女》 )が展示されていたけど、里見美禰子っていったいどんな感じだったんだろう。妄想は膨らむばかりである。

 さて、もうすぐ日が沈む。妄想タイムもそろそろ終了。現実に戻るために胡椒のピリリと効いたカレーでも食べることにする。画廊喫茶ルオーである。コーヒーカップのカタチに背の部分がくり抜かれたオリジナルの椅子に座って、名物のセイロン風カレーライスを食す。肉の塊ふたつにジャガイモひとつ。昔ながらの懐かしいカレーである。

セイロンカレー