もうそろそろ、でもまだまだ
近所に素敵な花屋さんがある。店の前に小さな黒板が置いてあって、白いチョークでそこに季節の歳時記の言葉が書かれている。その言葉がいつもとても柔らかい。前を通る度に心が和む。例えばこんな感じだ。「明日は冬至です。一年で一番日が短い日です。でも、それってつまり、これからはどんどん日が長くなるってことですよね?」
で、今週。店の前を通ったら、「もうすぐ大寒ですね。でも、木々も確実に芽吹いてきました。もうそろそろかな。でもまだまだかな?」とあった。つられてブーケをひと束買った。
Lumix G Macro 30mm f2.8 + GM1
春は待ち遠しい。でも、このままずっと冬が続くのも悪くはない。春生まれの、でも冬が大好きな自分にとって今はとても複雑な気分である。まさに、もうそろそろ。でもまだまだ。…
ちなみに、T・S・エリオットの「荒地」の出だしは有名なこんな文章から始まる。
四月は最も残酷な月、死んだ土から
ライラックを目覚めさせ、記憶と
欲望をないまぜにし、春の雨で
生気のない根をふるい立たせる。
冬はぼくたちを暖かくまもり、大地を
忘却の雪で覆い、乾いた球根で、小さな命を養ってくれた。
「荒地」T・S・エリオット 岩崎宗治訳
bouquet
ワイルドとビアズリー
十数年前、仕事で南仏のカンヌに行った折、海岸沿いをマントンにまで足を伸ばした。ここにはジャン・コクトー美術館がある。近くのカップマルタンには例のコルビジュエの丸太小屋がある。まあ、このあたりまではみんな知っている。コートダジュールを訪れた観光客が足を伸ばすスポットであろう。でも、私が行きたかったのは墓地。オーブリー・ビアズリーの墓を見に行きたかったのだ。
マントンと聞けばビアズリーの墓、とすぐに条件反射するヤツなんてめったにいない。でも、世紀末美術に耽溺した20代を送った者にとっては、マントンと言えば、コクトーもコルビジュエも二の次で、まずもってビアズリーの眠る街なのだ。
ガイドブックになんか決して載っていない。当時はHPの情報だって貧弱だった。(今では、Find a grave なんてサイトがあって、有名人の墓がどこにあるのか一発で検索できる)それは、海沿いの丘の上にある墓地のどこかの一角にあるに違いない、そこまでは察しが付くけれども、敷地内の膨大な数の墓の中から25歳で夭逝した異邦人の地味な墓標を探し出すことは困難を極めた。
でも、これからは、ビアズリーの墓詣でにわざわざマントンにまでやって来る日本人観光客も珍しくなくなるだろう。だって、原田マハさんがこんな新刊を出しちゃったのだから。
一気に読んでしまった。どこまでが史実でどこまでがフィクションなのか訳がわからなくなってしまうのだけれど、なにしろ大好きなオスカー・ワイルドとオーブリー・ビアズリーを巡る小説である。これはタマリマセン!
大学時代のゼミの恩師は河村錠一郎先生。先生の書いた「ビアズリーと世紀末」は今までに何度も繰り返し読んだ。ロンドンでイエローブックの初版本を探したこともある。
ワイルドの「ドリアングレイの肖像」は原書で読んだ初めての洋書だ。ワイルドが逮捕されたカドカンホテルも終焉の地となったホテル・ザルザス(現在のロテル)も何度か泊まった。お金もないのに、かの名門サヴォイホテルにも奮発して泊まったことがある。とにかくワイルドが好きで好きでたまらなかったからだ。彼の芸術至上主義、耽美主義の言葉に憧れ続けた20代だった。
原田さんの新刊のせいで、当時の熱が再発してしまったようだ。この年で再び芸術至上主義はヤバい。でも、もうダメだ。気付いたらもう、また「ドリアングレイ」を読み返し始めている。。
lapis lazuli
リレンザ
咽が痛い。チリチリ。咳が出る。コホンコホン。熱を測ってみたら37度7分。うぬ?微妙。とりあえず耳鼻科に行くことにする。まあ、流行の咽風邪ってところだろう。「念のため、インフルエンザの検査しておきましょうね」ということで、「ちょっとモゾモゾしますよー」鼻腔の奥の粘膜採取、その場で、3分。「…A型ですね」「え?」「ほら、ちゃんとクッキリ出てます。A型です」「でも、インフルエンザならもう少し高熱かと」「いろんなタイプがあります。時には36度台でもインフルエンザの場合があります」「…」「薬出しておきます。リレンザ使ったことありますか?」「いえ」「吸引タイプで早く効きます」
ということで、ここに来てインフルエンザに罹患してしまったのである。何年ぶりだろう?軽井沢の奥の湯の丸スキー場で十年前ぐらいに罹患して以来である。
これが吸引タイプのリレンザ。そうか、最近は内服のタミフルだけじゃないんだな。
で、それからずっと大人しく寝ているのだが、全然熱が下がらない。38度5分。これはもうりっぱなインフルエンザである。どうしても辛かったからこの解熱剤を、と渡されたアセトアミノフェンに手が伸びる。頓服である。
そう言えば、昔は頓服といえば、赤いパラフィン紙で包まれていたなあと思い出す。。今じゃ、処方箋を持って薬局に行くと「お薬手帳」がどうのこうの、ジェネリック推奨に賛同しますかしませんか。…なんとも味気ない。極めて資本主義的な分業である。
あの頃は、薬はすべてお医者さんで配合していた。看護婦さんが臼のような容器のなかで薬をすりつぶしていた情景を思い出しているうちに、熱のせいで意識が朦朧となってきた。。
ということで、みなさん、ここ5日間ぐらいは私に近づかないようにお願いいたします。
ビックシルエット
街はどこも冬物のバーゲン真っ最中である。そろそろコートがくたびれてきたし(と理由を付けて)いくつか馴染みのブランド店をこっそり覗いてみたりしているのだけれど、どの店も今年はなにやら様相が違うのである。サイズはいつものSサイズなのに、試着するとどれもこれもゆったり目というか、はっきり言ってデカ過ぎる。「え?これでSサイズですか?」と店員さんに尋ねると、「はい、ビックシルエットタイプですから」とのこと。…なるほど。これが噂のビックシルエットか。ここ1~2年、また流行が始まっているのだ。肩のラインが落ちて、全体が丸みを帯びた大きめの、80年代、90年代を彷彿とさせるデザインである。世の中デフレ状態の時はタイトシルエットが流行し、インフレ気味になるとビックシルエットが流行するという説もある。そろそろ株価も2万円を超え、ミニバブル時代が再来するということか?
ファッションは時代の縮図だろうけれど、でも、なにもすべてのブランドが揃いも揃って同じ方向に向かわなくてもいいのになあ、と思う。洋服だけではない。近頃のクルマのデザインも然りである。そろそろ愛車も12年落ちだしエアサス壊れる前に買い換えておかないとなあ(と理由を付けて)いくつかのディーラーをこっそり覗いてみたりしているのだけれど、はっきり言って買いたい車がないのである。みんな巨大なフロントグリルで3Dっぽいヘッドライト周り、オーガニックと言えば聞こえはいいけど、なんだか「ケバい」デザインのものばかり。
まあ、そういうデザインに移行したくなる気分はわからないでもない。でも、これだけ価値観が多様化した現代なのだから、各メーカーは自分たちのデザイン主張をもっともっと固有化してもいいと思うのだが。
ちなみに私は、相変わらずタイトなシルエットの洋服が好きだし、クルマは60年〜70年代のアルファロメオのジュリアやメルセデスの280SLのような古典主義のシルエットが好きである。クルマはクルマらしい形をしていればいいのだ。
ミナト町
ミナト町のマンションの一室で、冬の間ずっと古風な小説でも書いて過ごす。少し前までなら、そんなシチュエーションを考えてみるだけで心ときめいたものを。近頃はダメだ。すぐに醒めた気分になる。それが現実になれば、かえって自分は途方に暮れてしまうに相違ない。現実とイメエジの折り合いをうまく付けられないままにこの歳になってしまった。そのしわ寄せがやって来たのかもしれぬ。
自分自身はあの頃からなにひとつ変わってはいないのに。思うことも感じることも考えることも。書き留める言葉も口に出してしまう言葉も、人への思いやりもその偽善の具合も、なにひとつ変わってはいないのに。いや、だからこそ。変わっていないことが問題なのだ。
そんなことをぼんやり思いながら、そのマンションの一室の窓の向こうを眺めやる。真冬の街の情景が歪んだ硝子越しに見えている。イルミネーションが柔らかく瞬いて、広場を行き交う人々の緩やかな動きが伺える。眼に映るこの情景はホンモノなのか、あるいはこれもただの書き割りに過ぎないのか。
「いかがでしょう?」気が付くと、隣で誰か見知らぬ人が営業的な微笑みを浮かべて立っている。「ずいぶんと古い建物ですが、当時の設計のものは天井も高いですし、風呂場のタイル張りなんかも凝っていますよ」…ああ、そうか。私はこのマンションの前に立て掛けてあったオープンルームの案内看板を見て、誘われるがままに不動産会社に電話をかけてしまったのだ。「どうでしょう。おひとり用の書斎で使われるには十分な広さだと思いますけれど…」
Summaron 28mm f5.6 + MM
gentleman
冷たい雨
雨の日は、たぶん、気分は憂鬱である。特に冬の、朝からずっと冷たい雨が降り続いているような日には身も心もぼんやりと停滞してしまう。外に出る気なんて毛頭起きない。部屋の中で、窓ガラスに付着する雨筋をぼんやり眺めながら、たぶん、薄い音量でかかっているのはミシェル・ペトルチアーニのピアノである。
ネットで買った古本の(「程度:良い。ただし所々に経年のヤレあり」とコメントされている)カビ臭いペエジをパラパラとめくりながら、たぶん、今よりはずっとリリカルだった頃の小説を読んでいると、案の上、ぼんやりと眠くなってくる。で、昼日中からベッドに潜り込むことになる。ベッドの電気敷き毛布に下半身を横たえていると、なんとも分かり易く守られている心地がして、すぐに睡魔に襲われる。といっても寝入ってしまっていたのは正味一時間程度のことなのだけれども。
日中の睡眠から復帰すると、案の上、偏頭痛が始まってしまっている。眠っている間に、たぶん頭の中の思考するための襞(のようなもの)の位相がズレてしまうのだ。微熱っぽい。憂鬱な気分が加算される。空はどこまでも灰色で雨は止む気配がない。ますます世界はぼんやりとしてくる。でも、こういうのは決して嫌いではない。偏頭痛は我慢できないほどではない。
今日は、おそらくは今年はじめての憂鬱な、冷たい雨の降る真冬の一日。