naotoiwa's essays and photos

eyeline

Xenar 60mm f3.5 of Baby Rollei + ReraPan100


 eye liner




 トシを取ると涙腺が緩みやすいと言うが、まあ、自分はそう易々とは……と思っていたが、あらら、これには参った。昨日、卒業する4年のゼミ生のみなさんからこんなアルバムをいただいてしまった。昔で言えば、卒業記念の色紙といったところだろうが、我がゼミ生たちは、それを格好よくアートディレクションされたフォトブックに仕上げてくれた。私が授業中に話した(らしい)言葉のアフォリズム集になっている。おおお、ちゃんと授業中にメモ取ってくれていたのね。こんなこと言ったっけなあ。あああ、確かに言った言った。
 この後、それぞれのゼミ生のメッセージがかっこいいモノクロの写真入りで載せてある。ううう、涙腺が。……ありがとう、みなさん。そして、改めてご卒業おめでとう!これからもどうぞよろしく。

album1

album2



 57歳になりました。今年の誕生日は、大学の卒業式と重なりました。自分の誕生日に、ひとからお祝いされるだけではなく、たくさんのひとに向かっておめでとうと言える。これってとても幸せなことだと思います。

卒業

 4年生のみなさん、卒業おめでとう! 特にゼミ生のみなさん、一年間だけのお付き合いでしたが、ほんとうにありがとうございました。新米教員の私は、みなさんからいろんなことを学ばせていただきました。そのお礼と言ってはなんですが、年の功で(今日でまたひとつ増えましたw)みなさんよりはかなりたくさん人生の辛酸をなめていますので、社会に出てからも、なんなりと相談に来てくださいね。

 一昨日、3月だというのに雪が降り出して、いったいどうなることかと心配していましたが、今日はポカポカ、暖かな春の陽気でした。大学近くの野川の桜は五分咲きぐらいでしょうか。

sakura

 そう言えば、自分が大学を卒業した年も3月に雪が降りました。よく覚えています。3月20日前後、ちょうど今頃だったと記憶しています。五九豪雪と言われた年です。昭和59年。

 あれから30年余。あの時、いっしょに大学から社会に飛び出していった仲間たち。先日、久々に彼ら彼女らと会う機会がありました。みんな、タフにがんばっているようでした。ずいぶんと恰幅がよくなった人もいましたが、みんな、あの頃の自分らしさはなくしてはいないようでした。

 人間、そんなに変わるもんじゃありませんものね。これからも、自分らしい感受性を大切にして生き抜いていきたいですよね、お互いに。57歳の誕生日に、かの有名な詩を改めて。自戒を込めて。

 「自分の感受性くらい 自分で守れ ばかものよ」



 朝靄の中、紅白の梅林が見えている。鮮やかな紅白のコントラスト。午後からは20度近くまで気温が上がるという。でも今はまだ朝の6時。空気のソコがシンとしている。

梅林

 朝霧の中、かなたの山の稜線はまるで見えない。砂利道に一本の道筋だけが続いている。

砂利

 梅林に近づいてゆく。梅林のトンネルに入ってゆく。離れて見たときはあんなにコントラストがはっきりしていたのに、今こうして見上げると、早朝の薄青の空を背景にして、二色はあいまいに混ざり合い、朝霧の中に溶けてゆく。そして時折、梅の花の香りがシンとする。

all photos taken by Kinoplasmat 2.5cm f1.5 + E-PM1

西日

Kinoplasmat 2.5cm f1.5 + E-PM1


 西日。




 遅ればせながら、The Shape of Water、見てきた。エイリアンものは基本的には苦手なのだが、うわぁ〜、これはもう最高のラブロマンスである。ギレルモ・デル・トロ監督の映画はどうしてこんなにも映像が美しいのだろう。そして、音楽。思わずサントラ盤を購入してしまった。かの La Javanaise も入っている。現代のビリー・ホリディといわれるマデリン・ペルー(Madelene Peyroux)が唄う La Javanaise は本家のゲーンズブールやグレコに勝るとも劣らない、甘美で典雅で気怠いシャンソン&ワルツに仕上がっている。




 改めて1960年代にゲーンズブールが煙草をくゆらせながら唄った La Javanaise も見てみる。ダダイスト、ゲーンズブール。格好良すぎる。





 さあ、今日から春なのです。ダウンジャケットはクローゼットの奥にしまい込み、ベージュのトレンチコートに着替えましょう。そうして、蕾みが膨らんだ桜の木の下を通り、街外れの公園に向かって歩いていきましょう。

 太陽は輝き、夜は匂い立ち、そうして、時はよみがえる。

 でも、やっぱり。会えなくなってしまったひとに再び会える奇跡は起こらず、過去の悔恨は尽きることもない。けれど、だからといって自分の人生を卑下するなかれ。人生は最終的にはプラスマイナス・ゼロ。今までが良ければこれから下り坂、今まで悪かったひとはこれから上り坂。キミの人生はどうだ? うまくいったか、うまくいっているのか? うまくいってないと思っているあなた、ちゃんと努力すべき時に努力したのか? なんでもひとのせいにするなかれ。なんでも不運のせいにするなかれ。それにしても、いやですねえ。お互い年を取ると、みんななんだか、ひがみっぽくなってイヤですねえ。

 さあ、でも、今日から春なのです。もうすぐあなたも公園にたどり着くでしょう。そこは特別な公園なのです。中原中也がこんなふうに謳っていた、世にも不思議な公園なのです。

park

Illuminar 25mm f1.4 + E-PM1


 林の中には、世にも不思議な公園があつて、無気味な程にもにこやかな、女や子供、男達散歩してゐて、僕に分らぬ言語を話し、僕に分らぬ感情を、表情してゐた。
 
中原中也『いきてかへらぬ』

siluette

RE, Auto-Topcor 58mm f1.4 + α7s


 melting




 数年前に企業の職を辞し、組織の外からさまざまな仕事に関わるようになって感じていることは、この世の中はつくづく、仕組みとかシステムとか体制とか、そういうことにばかりにみんなお金をかけ、あるいは、そういうことばかりにしのぎを削って、本来ならば一番の核となるべきコアアイデアやコンテンツを考えるひと、その実現のためのクラフトマンシップに長けたひとにお金が潤沢に回りきっていないのではないかということである。
 大量消費社会の時代は終わった、というのはもうずいぶん前から言われていることだけれど、はたしてそうだろうか。昔も今も、けっきょくはマスマーケティングで儲かる仕組みを考案したひと、あるいは、いち早くそれを実現したひとが勝ち組になっているわけで、資本主義は終焉する? いやいや、今度はシェアリングエコノミーという流れの中で新しいマスシステムを作り上げたひとが勝ち組になるだけの話。そこのところはなにも変わってはいない。で、割を食うのは個人のクラフトマンシップである。それが最近ますますひどくなっている気がする。

 例えば、街のマッサージ屋さん(ずいぶんと話が身近になり過ぎて失礼!)は、卓越したテクニックと経験で60分間で完璧にコリをほぐしてくれるのに、この技量に対する対価は、ここ数年で半額ぐらいにコストダウンしている。(というか、そうでないとビジネスが成り立たなくなっているみたい)数年前までは1時間6000円だったものが今では3000円前後がアタリマエ。場所代とか差し引くとたぶん個人に入るお金は時給2000円程度にしかならないのではないだろうか。(まあ、マッサージを受ける身としてはこのコストダウンはとても助かるのだけれど)あるいは、ひとりで丁寧な料理を作ってくれるシェフのいるレストランに行くと、この値段で原価率や店の賃貸料を差し引くと、いったいいくら利益が残るんだろうか、その対価はこのシェフの技量に十分報いられる金額なんだろうかと、余分な心配ばかりが先にたつ。

 40代までは、自分もあわよくば将来なにかしらの新しいマスシステムを考案して、ひと財産!、なんてことを考えなかったわけではないが、今は、じっくりと作り手の側に身を置いて生きていけたらと願っている。大学での研究、個人で引き受けているクリエイティブディレクション作業。作家性の高い仕事は特にそうだ。自分が納得できるクオリティのものを自分らしいクラフトマンシップで仕上げてその対価を得る。そういうシンプルな仕事のやり方を一生続けていきたい。そして、常にそうした仲間を応援する側の人間でいられたらと思う。

きんかん

Flektogon 20mm f4 + α7s

 

荒天

RE, Auto-Topcor 58mm f1.4 + α7s


 荒天。


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