naotoiwa's essays and photos

dawn

GR 18.3mm f2.8 of GRⅡ


 dawn.




 三十五年ぶりに君に逢いに行った。棲んでいるところはちゃんと覚えていた。だって、あれからずっと、僕は君の棲んでいるアパアトの部屋の家賃を払い続けてきたのだから。

 鉄製の錆付いたドアを開けると、君は部屋の奥の窓を半分開けてベランダに体を半分出して、両手で両脚を抱えていた。ベランダには桜の花びらがたくさん積もっていた。ぼんやりと生暖かい風がゆっくりとこちらに流れてきた。
 部屋の中には三十五年分の埃が真綿のように白く積もっていた。床にも書き物机にも、鉄製のベッドに載せられたマットレスの上にも。その埃は生暖かい風に吹かれて、ほんの一瞬宙を舞ったが、すぐにもとの状態に収まっていった。

 やあ、と君は言って、ゆっくりとこちらにやって来た。そして、ベッドのマットレスに腰をかけるようにと僕に目配せをした。「なんだか甘い香りがするね」と僕が言うと、「さっきまで彼女がここにいたから」と君は言った。「彼女とはうまくやっていけそうか?」と僕が尋ねると、「それはこっちが聞くセリフだよ」と君は言った。書き物机の上の小さなスピーカーからシューベルトのピアノソナタが流れていた。「好きな曲もあまり変わらないね」と僕が言うと、「それもこっちのセリフ」と君は言った。

 それから、君は改まって、じっと僕の瞳を見つめながら、「久しぶりだね、その後どうです?」と言った。その口ぶりが中原中也の詩とまったく同じだったので、僕も、「そこらのどこかでお茶でも飲みましょ」と続けた。そうして僕は、君を部屋の外に連れ出すことにした。

 並んで歩いているふたりの背丈はほとんど同じだった。「毎日、この道を駅まで歩いて会社に通っているんだ」と君は言った。道は所々、昨日の雨でひどく泥濘んでいて、君の新調した革靴はすぐに薄汚れてしまう。



 最近、いくつかの講演で、あるいは、大学のゼミ生に、「わたしのなかのたくさんのわたしたち」……なんてことを言ったりする。多重人格? ジギルとハイド? いえいえ、そういった二律背反的なことではなく。

 平野啓一郎さんも、『私とは何か』で「分人」について述べている。ドミニク・チェンさんたちが事業をする際の会社名は「ディヴィデュアル」である。

 individualではなく、dividual、dividuals。個人とはそれ以上分割できない存在。それこそがアイデンティティ? いえいえ、わたしのなかにはもっとたくさんのわたしたちがいるんじゃない? じゃあ、個性ってなに? たぶん、それは、たくさんの自分の束ね方のクセみたいなものなのでは? 

 『ホモ・デウス』の下巻を読んでいたら、こんな文章があった。

 自分には単一の自己があり、したがって、自分の真の欲望と他人の声を区別できるという考え方もまた、自由主義の神話にすぎず、最新の科学研究によって偽りであることが暴かれた。(p114)

 私たちの中には、経験する自己と物語る自己という、少なくとも二つの異なる自己が存在する。(p119)

 物語る自己は経験を総計せず、平均するのだ。(p121)

 私たちが「私」と言うときには、自分がたどる一連の経験の奔流ではなく、頭の中にある物語を指している。混沌としてわけのわからない人生を取り上げて、そこから一見すると筋が通っていて首尾一貫した作り話を紡ぎ出す内なるシステムを、私たちは自分と同一視する。話の筋は嘘と脱落だらけであろうと、何度となく書き直されて、今日の物語が昨日の物語と完全に矛盾していようと、かまいはしない。重要なのは、私たちには生まれてから死ぬまで(そして、ことによるとその先まで)変わることのない単一のアイデンティティがあるという感じをつねに維持することだ。これが、私は分割不能の個人である、私には明確で一貫した内なる声があって、この世界全体に意味を提供しているという、自由主義の疑わしい信念を生じさせたのだ。(p124)


ユヴァル・ノア・ハラリ『ホモ・デウス(下)』(河出書房新社、2018年)

 とても納得のいく説明だと思った。

 自分をあまり演繹的に物語らないこと。自分という「総体」に素直になること。そうすれば、思い込みだけの「個性」も消えていくはず。

空と山と桜

Canon 25mm f3.5 L + M10-P


 空と山と桜と。


寒桜

Dallmeyer 1inch f1.8 + E-PM1


 寒桜。




 よく夢を見る。そして夢日記をつける。でも、うまく書けたためしがない。すぐに忘れてしまうからか? いや、枕元には手帖が置いてある。手元の明かりをつけてメモする準備はできている。だから、あらすじめいたものはスラスラ書くことができる。でも、読み返してみるとさっぱり訳がわからない。夢で見た内容があまりに荒唐無稽だからか? いや、そういうことではないのかもしれない。ベストセラーになった『サピエンス全史』の著者ユヴァル・ノア・ハラリの続編『ホモ・デウス』の中に、こんな文章がある。

 実際、人間自身も、言葉にせずに過去や未来の出来事を自覚することはよくある。とくに、夢を見ている状態では、言語によらない物語をまるごと自覚することがあり、目覚めたときにはそれを言葉で描写するのに苦労する。

ユヴァル・ノア・ハラリ『ホモ・デウス(上)』(河出書房新社、2018年)、pp157-158

 近頃、この、「言葉によらない物語」について考えることが多い。起承転結型の物語なんてつまらない。そもそもストーリーテリングという考え方がつまらない。同じ物語でも、ナラトロジー、あるいはナラティブと言われれば心惹かれる。その理由は、言葉、特に書き言葉に依存することの限界を(あるいは、その欺瞞を)我々が本能的に感じ始めているからではないだろうか。

 夢日記がうまく書けない理由もたぶんそのあたりにあるのではないか。内容が荒唐無稽過ぎるからではなくて(あるいは、物語というのは元来このくらい荒唐無稽なものだと言い換えてもいい)、ただ書き言葉に翻訳しづらいというだけのこと。我々は夢を見ているとき、体全体、脳全体、意識と無意識のその全部で物語を紡いでいるのだ。とてもナチュラルにホリスティックに。

fox

Dallmeyer 1inch f1.8 + E-PM1


 fox.




 腕時計が好きである。海外に行くと蚤の市で手巻きのアンティークの掘り出し物を探したりする。ブランドものには残念ながら手も足も出ない。でももしも、ひとつだけ好きな腕時計を買ってもいいと言われたら(だれもそんなこと言ってはくれないだろうけどw)、IWCかパネライかベルロスか、いや、やはりここはフランク・ミュラーを選ぶだろう。……フランク・ミュラー。最近は今ひとつ評判が良くないみたいだけれど、(腕時計マニアの友人に言わせると、フランクの普及モデルの自動巻きは汎用のムーブメントを使っている割に高価すぎる。パワーリザーブがあまり持続しないし、PVD塗装はすぐに剥げてくるらしい)でも、あのアールデコでビザンなデザインはやっぱりとても蠱惑的だし、複雑時計の設計哲学が他のメーカーとは比べものにならないと思う。そう言えば、どこかで彼の名言を読んだことがある。……検索してみる。……ああ、これだ。

 人生に挑戦するのに年齢なんて関係ない。そもそもこの世に時間などない。それは人間が勝手に作ったものだ。私は時計師だからそのことがよくわかる。

 この彼の哲学を反映したモデルが、例えばクレージー・アワーズなのだろう。1から12までの数字は一見ランダムにシャッフルされたように配置されている。で、正時になると短針が突然大きくジャンピングするのだ。稀代の時計師のつくった複雑時計をこっそり左手の手首に忍ばせて、「そもそもこの世に時間などない」と自分もうそぶいてみたいものだ。



 ずっと日記をつけている。1997年からだから今年で22年目になる。毎日欠かさずと言いたいところだが、まとめて一週間分なんてことはザラにある。最近は記憶力が落ちて、一週間遡るのは至難の業だけれど。
 1997年は父親が死んだ年である。命日の1月7日からずっと日記をつけている。たぶん、あの時から自分の中のなにかが変わったんだろうと思う。それがなんなのかはよくわからないのだけれど。人生のウエイトレシオが未来から過去へとシフトする年だったのだろうか。36歳。71歳までの折り返し地点。ちなみに父親は71歳で亡くなった。

 で、最近思うこと。どうせならもっと早くから日記をつけていればよかった。つくづくそう思うのだ。二十歳の頃の、いやティーンエージャーだった頃の自分が日々なにを感じなにを思いどんな行動をしたのか、そのログデータの詳細を今見ることができたらと。そんなものを確認してどうする? でもやはり世界の謎の大半は自分自身の謎なわけで、それをこれからの残りの人生の中で解き明かしていかないとケリがつかないような気がして。

 ポール・オースターの自伝的小説の中に、以下のような文章がある。

 日誌でわからないのは、いったい誰に向けて語ればいいのかだった。自分に向けて語るのか、それとも誰か他人に向けてか。自分にだとすれば、なんとも奇妙でややこしい話に思える。なぜわざわざ自分がもう知っていることを自分に語るのか。

 あのころは君はまだ若く、やがて自分がどれだけ多くを忘れることになるかわかっていなかった。現在に没頭するあまり、実は未来の自分に宛てて書いているのだということが見えてなかったのだ。かくして君は日誌を放棄し、以後四十七年間、少しずつ、ほとんどすべてが失われていった。


ポール・オースター『内面からの報告書』(2017年、新潮社)、pp152-153




 小春日和な午後である。おまけに室内はたっぷりと暖房が効いている。眠くなる。このままこのソファで、猫のように丸まって眠ってしまおうか。

 室内の壁はグレイにくすんでいる。そこに、素描のカモメが三羽、飛んでいる。小さなスピーカーから、かすかな音でピアノが鳴っている。そして、花とベリーの匂いがする。大きな窓からは、通りを歩いてゆく何人かの横顔が伺える。奥にある小さな窓はハメ殺しの窓だ。

cloud

Elmar 3.5cm f3.5 + M8


 君はこの場所で、ずいぶん昔のことを想い出そうとしている。30年、いや35年も前の話。……でも、これはもう、どうやったって手遅れなんじゃないかと君は思い直す。みんな朽ち果ててしまったのだから。内も外も。

 暖房機の音がぼんやりと鳴っている。今なら、あの頃みたいにいつまでも眠り続けることができるんじゃないかと君は思う。花瓶に挿してあるドライフラワーもグレイにくすんでいる。スマホはどこかに忘れてきてしまった。君のタイムラインには当分の間なにもやって来はしない。

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