naotoiwa's essays and photos



 早いもので、大学の教員になってもう2年目の冬である。4年生は卒論提出の時期である。この2年間ははじめての経験ばかりだったので、自分の研究もさることながら、いったいどのような授業を行えばいいのか、そのカリキュラム作りと実践にトライ&エラーの毎日だった。特に大人数の授業はその課目に対してモチベーションが高い履修生ばかりが集まるとは限らない。でも、そうした学生に対しても学び方自体を学べるきっかけになればと、なるべく新しくアップデートされた情報・役に立つ情報を、そして90分間の間に発想が刺激されるネタを準備してきたつもりである。結果、通常の大学の授業とはずいぶん異質な内容になってしまった時もあったかもしれない。でも、「先生の授業とても面白かったよ」と言ってくれる学生も多かったし、一年目の学部投票では恐れ多くもベストティーチャー賞なるものもいただけた。
 でも、ここに来て、果たしてほんとうにこれでよかったのかなあと自問自答している自分がいる。というのも、自分が今二十歳前後の学生だったらどんな授業を望むだろうかと考えると、現在自分がやっていることとは少々違うような気がするからである。
 電車やバスを乗り継いで大学のキャンパスに通い、朝の9時から始まる1限の授業に遅刻せずに出席し、午後は気のおけない仲間と少人数ゼミで過ごす時、自分だったら授業になにを望むのか。ただ単に新しいだけの情報などネットを駆使すれば自宅でたやすく検索できる。わざわざ大学に通ってまでして指導教官から得たいと望むのは、もっと静謐できめ細やかな知の体系のようなものなのではないだろうか。実学的な役になど立たなくともよい。時にそれは偏狭に陥ることがあるかもしれないけれど、それ故にこそ専門性の高い、その教官独自の感受性で丁寧に積み上げられた知の体系。詭弁や大仰なレトリックとは無縁の、その教官と同じ場所にいるだけで脳の中の襞がしっとりとしてくるような空気感。……例えば、今日木曜日の一限はフランス語。今週は仮定法過去。テキストにはプルウストを使うらしい。午後からはゼミの指導教官と詩人の中村稔さんの詩を朗読し解析する。4限が終わったらどこか大学の近くの喫茶店でノオトを復誦しながら「思案に暮れる」。……そんな大学生活は、もはや過去の幻影なのだろうか。いや、いつの時代にあっても「知の香しさ」なるものは存在し、それが感じられない授業は大学の授業ではないと思うのだけれど。
 などと自戒しつつ、さあて、今日も出講日。本日のゼミではなにを話そうか、なにを伝えようか。ひとりでも多くの学生に少しでもそれを感じてもらえることができたら、と。



 伊豆の河津といえば、とにもかくにも早咲きの河津桜で有名。他にも薔薇の名所のバガテル公園には何度か行ったことがあるが、今の今まで、河津にこんなところがあるとは知らなかった。伊豆ならんだの里、河津平安の仏像展示館

 河津駅の近くの谷津橋(かつてはここが伊豆半島の海運の要所だったらしい)から車で坂道を7〜8分ほど。駐車場に車を止め、そこからさらに急な坂道を登る。ちょいと息があがるが、ようやく登り詰めたところからの山の紅葉が美しい。
 現在、展示館の隣には南禅寺(なぜんじ)のお堂が建っているが、八世紀、行基がこの地にインドのナーランダにちなんだ那蘭陀寺という名前のお寺を建立したのが始まりとのこと。しかし、十五世紀、この那蘭陀寺は山崩れにあい、安置されていた平安時代の仏像・神像のほとんどが土の中に埋没してしまった。で、のちにそれらを掘り起こし奉納したのが南禅和尚なんです、と地元の方が丁寧に説明をしてくださった。

 その仏像・神像群が素晴らしかったのである。約二十体ある像のうち、半分近くはお顔の原型を留めてないが、それでも、いや、それゆえにこそ、神々しさがひしひしと伝わってくる。プリミティブアート、あるいは抽象的なモダンアートを見ているような気分になってくる。三十分ほど魔法をかけられたように我を忘れて見入ってしまった。
 最後に、これらの仏像の多くがカヤの木の一木造りだと説明を受けながら、木の皮の甘みだけで煎じた甘茶をいただいた。そして、「これはその同じカヤの木のお札ですよ」といってお土産にもらった木札は、なんとも清々しいいい香りがした。悠久の昔に誘ってくれるような。……

南禅寺






 Chilly Gonzales のピアノが好きである。予定調和のメロディにキラリと不協和音が混ざる。イージーリスニングのように安心させておきながら、思わぬ落とし穴が待っている。リリカルでクール。……その加減がちょうどいい。とても落ち着く。まさに chill な感じ。

 Chilly Gonzales のピアノはくぐもった日によく似合う。空気の粒子が細やかに振動する。Chilly Gonzales のピアノはなにかを想い出している時によく似合う。ぼんやりと未だこれからの夢を心の中に描いている時に、よく似合う。



 

芝離宮

FE 35mm F2 + α7s


 夜の水鏡。




 冬が近くなると、無性に浅草に行きたくなる。

 午後3時。田原町で地下鉄を降り、まずはパンのペリカンを覗いてみるが、案の定、食パンもロールパンもすべて売り切れ。棚にずらりと並んだ予約済みの食パンを眺めているうちに、どうしてもガマンができなくなって百メートルばかり歩いた先の直営のカフェに入り、炭焼きトーストを注文する。バターとジャムをたっぷり付けて食す。……とりあえず満足である。

ペリカン

 でも、さすがにトースト一枚だけでは腹は満たされぬ。ならば、もう一軒。今度は尾張屋に行こう。いつものように永井荷風先生に倣ってかしわせいろを注文しよう。

 さてさて、浅草に来たのだから、隅田川沿いに出て黄金のうんちでも眺めながら夕暮れ時の秋風に吹かれようか。それともやはりまずは浅草寺詣か。でも、お神籤を引くのだけはよそう。浅草寺のおみくじは凶ばかり出るからな。

 あるいは、浅草駅から東武鉄道に乗って東向島で降り、かつての玉ノ井あたりを散策するのはどうか。あるいは、ひさご通りまで歩いて行って、かつての浅草十二階に思いをはせるのはどうか。当時の遺構が出土したという話を最近ニュースで耳にしたばかりだ。あるいは、合羽橋に行ってレトロなデザインのコーヒーミルでも探すのはどうか。

 あれこれ迷いながらとりあえず田原町の駅まで戻ったところで、あ、そうだ、近くに等光寺があったっけ。……久しぶりに啄木さんの顔を拝んでいくことにしよう。啄木さんは相変わらずの泣き顔である。めそめそ泣いてる。こんな顔して彼はあのエロチックなローマ字日記を書いたのか? こんな顔して彼は浅草の夜に繰り出していったのか?

啄木

 あと30分ぐらいで日が暮れる。師走が近づくと日が落ちるのがめっきり早くなる。まもなく浅草の夜が始まる。さて、まずはどこの店に入ろうか。6時になったら国際通りのバー・フラミンゴが開くはずだ。そこでキース・ジャレットでも聞きながら、冬に相応しいカクテルでも飲むというのはどうだろう。……国際通りを歩く人の数がしだいに多くなってきた。

「浅草の夜のにぎはひに まぎれ入り まぎれ出で来しさびしき心」

all photos taken by Dallmeyer 1inch f1.8 + E-PM1




 ずんずんと、駅から続く一本道を私は歩き続ける。この道は、数十年も昔に毎日通った道だ。大通りに軒を連ねる店のほとんどが様変わりしてしまった。でも、狭い路地に入り込むと当時の雰囲気がまだ至るところに残っている。そこに清澄な秋の日射しが降り注いでいる。

 この日射しを浴びていると、私はどんなことだって思い出せそうになる。数十年ぐらいはあっという間に行き来できそうになる。それどころか、ぐるっと回転して、自分の人生はひとつ前の人の人生になり、ぐるぐる、そのまたひとつ前の人の人生になる。何度でも、ぐるぐるぐるぐる、十回、二十回、三十回。いくらだって繰り返せる。人なんかどれだけ変わっても、この世界自体はなにも変わりはしない。世界の終わりはなかなか訪れはしない。あるいは、ほんとうの世界は、とうの昔にすでに終わってしまっているのかもしれない。

 秋の日射しを全身に浴びていると、私はいつだってそんな気分になる。すれ違う人々の顔が白くハレーションを起こしている。みんな、のっぺらぼうみたいに見えてくる。懐しさみたいな感情が時折湧き上がってきたとしても、それはカラカラに乾き切っている。

清澄

Summilux 50mm f1.4 ASPH. + M10-P



 日本の映画監督の中で好きなのは、やはり行定勲監督。あのローキーで暗緑色がかった色味、光の滲む映像は病みつきになる。彼の手に掛かると、どんなロケ地でもまるで演劇の舞台のセットの如くメタファーに満ちた趣になる。三島由紀夫の「春の雪」、雫井脩介の「クローズド・ノート」、中谷まゆみの「今度は愛妻家」が特に印象に残っている。最近だと、去年の今頃映画化された島本理生の「ナラタージュ」の映像が美しかった。

 先日、久しぶりに原作の「ナラタージュ」を読み返してみた。もう十年以上前の作品である。葉山先生と工藤泉。ふたりの最後の合瀬の、あのあまりにも切ない性描写、みごとな筆致である。こんな文章を20歳そこそこで書けるなんて、やはり彼女は天才なのだろう。そして、この「ナラタージュ」、原作も映画も雨の描写が象徴的である。

 雨の午後は昼間と夕方の境界線が曖昧で、窓にはただ全体的に暗くなっていく一枚だけの景色が張り付いていた。

島本理生『ナラタージュ』(角川書店、2005年)


 ナラタージュ。ナレーションとモンタージュの造語。あるいは、過去を再現する手法。

 最近、ナラティブとかナレーション、そしてこのナラタージュといった言葉の響きがとても気になる。そこにこそ「物語」の一番大切なエッセンスが「滲んで」いるようで。


海を見ていた午後

Summicron 35mm f2 2nd + MM


 海を見ていた午後。


morito

Super-Angulon 21mm f4 + MM


 森戸大明神。


湯神

Summar 5cm f2 L + Ⅲa + Acros100


 湯神。


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