naotoiwa's essays and photos



 ホテルから歩いてすぐの大通りでバスを待っていたのに、どれもこれも行き先が違う。尋ねてみると、セントラル行きの停留所は別の通りにあると言う。ホテルに戻りコンシェルジュに地図を書いてもらうことにした。「わたくしどもの敷地の中を抜けていってください、シニョール、その方が近道ですから」……シニョール? どうやらここはイタリアのどこかの街らしい。

 ところが、地図に書かれてあった抜け道をたどっていくと(それは、ホテルの棟と棟との間の細い道を指している)、途中に大きな岩が置かれてあって、no enterの立て看が添えられている。いい加減なことを言うコンシェルジュだ。

 バスになんか乗らなくとも、自分だけなら何の問題もない。歩いてもせいぜいが30分ほどの距離なのだから。でも、今回は母親連れ。母親は脚が悪いのだ。

 部屋に戻ってバス停が見つからなかったことを母親に告げると、「そんなこと、構やしない」と彼女は言った。「あたしはあんたといっしょにいられさえすればそれでいいのだから」と彼女は言った。「あんたに旅行に連れてきてもらうなんて何年ぶりのことだろう?」「でも、ピンチョの丘とか、スペイン階段とかに行ってみたいだろ?」と私が言うと(どうやらここはイタリアの、しかもローマの街らしい)、「そんなの、ぜんぶここから見えるさ」、そう言いながら彼女が部屋の窓のカーテンを乱暴に開け放すと、たしかにそこから、ローマの街のすべてが見渡せた。私は窓の外に上半身をせり出すと、深呼吸ともため息ともつかぬそぶりを見せる。

 「相変わらず、秋が嫌いかい?」と彼女が私に尋ねている。「こんなに空気が澄んでいるのに、こんなに空が高いのに、こんなに木々の色がきれいなのに?」「……ああ、だって、あとにはもう、冷たい冬しか残っていないからね」と私は答える。それを聞いて「まだ生きているくせに、生意気を言うんじゃない」と彼女は言った。……死んだ母親は、そう言った。

 という夢を見た。

rome

Summilux 35mm f1.4 + M9−P

ブランコ

Dallmeyer 1inch f1.8 + E-PM1


 めまい。


white face

Summilux 35mm f1.4 2nd + M


 white face.


lion

Dallmeyer 1inch f1.8 + E-PM1


 lion.


狐憑き

Summilux 50mm f1.4 ASPH. + M


 狐憑き。




 まあ、100%あり得ないことだけれども、自分がこの先万が一にも富裕層にでもなって何不自由なくお金を使えるようになったとしたら、いったい何を手に入れたいだろう。……そう考えてみるのは悪いことではない。自分が最も欲しいものとは何なのか、自ずと分かってくるはずだから。
 さて、何を買いましょうか? 高級腕時計? 車はスポーツカーかヴィンテージカー? 高級マンションあるいは海辺の別荘? ヨットや自家用ジェットは? ……ま、それらの中のいくつかはあってもいいけど、さほど食指は動かない。

 世の中のほんとうの大金持ちが究極望んでいるものは何なのだろう? すでにあらゆる物品を手中にした者が最後に望むもの。それは、おそらく不老不死ではないだろうか。
 『サピエンス全史』の著者ユヴァル・ノア・ハラリ氏の次作『ホモ・デウス』を読んでいて、なるほどと思った。有史以来すべての生きとし生けるものは、不老不死なんて荒唐無稽な夢物語に過ぎないと諦めていたが、昨今のバイオテクノロジーとAIの劇的な進化によってここ数十年のうちにそれが実現しうると予測する科学者もいる。ここに来て、人間は「神」になってしまう可能性だってあるのだ。ただし人数限定。巨大な権力と巨額のお金を持っている人のみ不老不死の切符が手に入る。

 さて、話を戻して、自分がこの先万が一にも富裕層にでもなって何不自由なくお金を使えるようになったとしたら、いったい何を手に入れたいだろう。自分が最も欲しいものとは何なのか。
 自分なら、どんなに大金持ちになろうとも不老不死なんていらない。永遠に生き続けるなんてまっぴらご免だし、自分の肉体や頭脳だけ若返っても意味がない。でももしも、この世界全体の時間を巻き戻せることができたなら、過去の自分と過去の世界にタイムマシーンで戻れる切符が手に入るのなら、自分は惜しげもなく全財産を使い果たすのではないだろうか。究極のゼイタクとは、過去を取り戻すことだと思うから。過去は未来なんかよりもずっとずっとゼイタク品だと思うから。
 VRやAR技術の進化で、過去の時間にタイムスリップしたような幻視体験はできるようになるかもしれないが、この先、どんなにテクノロジーが進化しようとも「時」を自在に制御することだけはまったくめどがたっていない。

台風一過

Summilux 50mm f1.4 ASPH. + M


 台風一過。




 
ふみよめば 繪を巻きみれば かにかくに 昔の人の しのばるるかな


上田秋成


願い事

Summar 5cm f2 + Ⅲa + Acros100

no enter

Summilux 35mm f1.4 2nd + M9-P


 no enter.




 久しぶりに絵葉書なんぞが届いた。古い友人からだ。海外に転居することになったらしい。スイスだかどこだかの風景写真の裏に、肉筆で「元気?」とか「お互い年とっちゃったね」とか「でも、落ち着く気なんてまだまだないから」などと書いてある。絵葉書か、と僕は思った。昔はこれを使って恋人たちは、旅先から「会えなくて寂しい」だの「離れてみてわかったけれど、やっぱりあなたのことが好き」だのなんだのと書いて送り合っていたものだ。手紙は封書なので本人しか読めないが、絵葉書だと文面丸見え、郵便配達の人も読もうと思えば読めてしまう。でも、このプライベートの晒し方晒され方、悪くなかったなあと思ったりする。それに引き換え、イマドキの手紙と言えば電子メールやSNSのチャットになるのだろうか。絵葉書はそれにインスタグラムを付け足したようなものだ。メールは完全にパーソナル、SNSの場合は全部オープンにすることもできるし設定は変幻自在である。でも、プラットフォームの管理者はその気になれば個々のメールも全部読めるわけだし、我々のプライバシーは極めて機械的に失われてしまっている。グッドバイ・プライバシー。

 絵葉書に限らず、ここ二十年でコミュニケーションは劇的に変化した。例えば電話。今では公衆電話なんか誰も利用しないし、家の固定電話すら持たない人が多くなっている。でも、主が不在の部屋の中で、その人を求めて誰かがコール音を鳴らし続けるからこそドラマは生まれるのであり、この世界から「不在のいとおしさ」みたいなものが失われていっている気がする。果たしてこれがコミュニケーションの正常進化と言えるのだろうか。

 ああ、そう言えば。昔は電報なんてものもあった。もちろん今でも冠婚葬祭等には使われているのだろうけれど、プライベートに電報を使う人などめったにいないだろう。恥ずかしながらワタクシは、昔々、ガールフレンドに電報でメッセージを送ろうとして係の人に文面を読み上げられ復唱されてメチャクチャ気恥ずかしい思いをしたこともある。でも、あれも今から思えば、晒し方晒され方は悪くなかったように思うのだけれど。

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