naotoiwa's essays and photos



 大学で院生の方を指導させていただいていることもあり、また、この四月から自分の扶養家族が大学院に進学することもあって、最近、これからの時代のより専門性の高い教育とはどうあるべきかについて考えることが多い。

 2011年以降、学部を出て院に進学する人の数は減少傾向にあるようだ。修士課程2年が加わることが就職の際に有利に働くとは限らないこと、逆に条件が悪くなる場合も多いと指摘する学生さんも多い。ましてや博士課程まで進みアカデミズムを極めたとしても、その後にパーマネントの研究者の道が確実に約束されるわけでもない。そして、その間の学費の問題がある。また、就職が遅れることによる生涯年収の差異を考えると、大学院進学に二の足を踏むのも当然かもしれない。

 今回、大学院生を扶養する立場になって金銭面のことは切実に身に染みて感じるようになった。決して安くはない入学金や授業料、これらは税金の控除対象にならない。それは学部生に関しても同じだが、その分学部生の場合は特別扶養控除枠があって23歳未満の(つまりは学部に所属している大学生の)子を持つ親は63万円の特別控除が許されているが、これが院に進学してしまうと使えなくなってしまうのだ。通常の38万円に戻ってしまう。この63万と38万の差25万円はけっこう大きいことが、今回確定申告の計算をしていて実感した次第である。

 このように、本人にとっても扶養する親にとっても、大学院進学には将来への不安や経済的な負担が大きくつきまとう。でも、今の時代だからこそ、より専門性の高い勉学がますます必要になってくるのではないだろうか。どの分野においても「イノベーション」を求められる現代においては、よりいっそうの専門性を磨くこと、そしてそれらを異種交配する能力こそが肝要だ。社会全体がそうした努力をする人間をもっともっと支援しリスペクトすべきなのではないだろうか。

 ま、それはさておき。せめて大学院生を扶養する親には、引き続き特別扶養控除を認めてもらいたいものです。トホホ。

摩利支天

Summilux 35mm f1.4 2nd + M10-P


 摩利支天の使徒。




 今朝NHKのニュースを見ていたら、愛知県のモーニングセットの話が紹介されていた。名古屋に行くと食生活の面でいろいろなカルチャーショックを受けるが(なぜにカツに味噌を? なぜにきしめんに味噌を?)そのひとつにモーニングセットのゴージャスさがある。コーヒーを注文しただけなのに卵もトーストもサラダも付いてくる。お豆やクッキーだって付いてくる。で、500円もしない。東京でこれらを注文したら軽く1000円は超えてしまうだろう。

 で、NHKニュースによるとこのモーニングセット、発祥は一宮市なんだそうである。繊維業が盛んだった一宮市は織物工場の騒音が始まる前の朝の時間、アパレルの関係者が喫茶店でさまざまな商談を行った。その際に店側がピーナッツやゆで卵を提供したのがその始まり、的なことがウィキペディアにも書いてあった。

 ああ、それで、とようやく合点がいった。小さい頃よく車で父親に喫茶店に連れて行かれ、そこで食事代わりのモーニングセットを食べた記憶があるのだが、なるほど、父親はまさにモーニングセット興隆の当事者だったわけだ。というのも、父親の職業は毛織物の卸業。毎日車で一宮や岐阜の街に出かけていっては仲買の商売をしていたのである。

 職業柄いつもダンディにしていた(というか、着倒れ人生?)あなたと、つもりに積もった話をするために、久しぶりに一宮市に行ってゴージャスなモーニングセットを食べたくなりました。今ならどこの店に行けばいいのでしょうか、ね?



 あなたは五感のうち、どれに最も敏感ですか?

 たいていの現代人は圧倒的に視覚だろう。もちろん自分もそうである。でも、視覚に負けず劣らず、自分は嗅覚に過敏な方だと思う。過去の記憶も嗅覚を中心に覚えていることが多い。その代わり、自分は聴覚はダメだ。だから、音楽家にはなれなかったし、外国語のヒアリング能力もあまり高くない。

 冬の晴れた日、公園のベンチで日射しを浴びながら目を瞑り、ゆっくりと息を吸い込む。百メートルぐらい離れたところにある露店から、コーヒーと焼きたてのクロワッサンの香りが漂ってくる。広大な池からは、ようやく暖まり始めてきた水と藻の香りがする。そこに、清々しい梅の香りが時折混ざる。

 しばらくして、背後を誰かが足早に通り過ぎていった。ふんわりと甘い薔薇の香りがした。ちょっと古風で懐かしい薔薇の香り。こんな香水を付けているのはどんな女性だろうと好奇心を抑えきれず、振り返ってゆっくりと目を開けてみる。すると、なんとそこには、高校生の男の子の後ろ姿が。……え? でもたしかに、この薔薇の香りは彼の残り香なのである。遠ざかっていく彼のジャージ服から匂ってくるのである。

 ああ、そうか。想い出した。これは、最近流行っている柔軟剤の香りなのである。クラシカルローズの香り。嗅覚がひとより敏感だと自負している男は、こうして冬の公園の片隅で苦笑いなんぞしているのである。

 でも。いずれにしても、ひとそれぞれ、五感の感覚比率が違うのである。そういうのがクオリア(感覚質)の違い、ひいては個性の違いにつながっているのではないだろうか。

 



 四畳半とし云へば、何やら茶人めいたる清淡雅致の一室を聯想すべけれど、我が居室は幸にして然る平凡なるものにあらず。と云へば又、何か大仕掛のカラクリにてもある様なれど、さにもあらず。有体に自白すれば、我が四畳半は、蓋し天下の尤も雑然、尤もむさくるしき室の一ならむ。而して又、尤も暢気、尤も幸福なるものゝ一ならむ。

石川啄木『閑天地』


我が四畳半

GR 18.3mm f2.8 of GRⅡ

dawn

GR 18.3mm f2.8 of GRⅡ


 dawn.




 三十五年ぶりに君に逢いに行った。棲んでいるところはちゃんと覚えていた。だって、あれからずっと、僕は君の棲んでいるアパアトの部屋の家賃を払い続けてきたのだから。

 鉄製の錆付いたドアを開けると、君は部屋の奥の窓を半分開けてベランダに体を半分出して、両手で両脚を抱えていた。ベランダには桜の花びらがたくさん積もっていた。ぼんやりと生暖かい風がゆっくりとこちらに流れてきた。
 部屋の中には三十五年分の埃が真綿のように白く積もっていた。床にも書き物机にも、鉄製のベッドに載せられたマットレスの上にも。その埃は生暖かい風に吹かれて、ほんの一瞬宙を舞ったが、すぐにもとの状態に収まっていった。

 やあ、と君は言って、ゆっくりとこちらにやって来た。そして、ベッドのマットレスに腰をかけるようにと僕に目配せをした。「なんだか甘い香りがするね」と僕が言うと、「さっきまで彼女がここにいたから」と君は言った。「彼女とはうまくやっていけそうか?」と僕が尋ねると、「それはこっちが聞くセリフだよ」と君は言った。書き物机の上の小さなスピーカーからシューベルトのピアノソナタが流れていた。「好きな曲もあまり変わらないね」と僕が言うと、「それもこっちのセリフ」と君は言った。

 それから、君は改まって、じっと僕の瞳を見つめながら、「久しぶりだね、その後どうです?」と言った。その口ぶりが中原中也の詩とまったく同じだったので、僕も、「そこらのどこかでお茶でも飲みましょ」と続けた。そうして僕は、君を部屋の外に連れ出すことにした。

 並んで歩いているふたりの背丈はほとんど同じだった。「毎日、この道を駅まで歩いて会社に通っているんだ」と君は言った。道は所々、昨日の雨でひどく泥濘んでいて、君の新調した革靴はすぐに薄汚れてしまう。



 最近、いくつかの講演で、あるいは、大学のゼミ生に、「わたしのなかのたくさんのわたしたち」……なんてことを言ったりする。多重人格? ジギルとハイド? いえいえ、そういった二律背反的なことではなく。

 平野啓一郎さんも、『私とは何か』で「分人」について述べている。ドミニク・チェンさんたちが事業をする際の会社名は「ディヴィデュアル」である。

 individualではなく、dividual、dividuals。個人とはそれ以上分割できない存在。それこそがアイデンティティ? いえいえ、わたしのなかにはもっとたくさんのわたしたちがいるんじゃない? じゃあ、個性ってなに? たぶん、それは、たくさんの自分の束ね方のクセみたいなものなのでは? 

 『ホモ・デウス』の下巻を読んでいたら、こんな文章があった。

 自分には単一の自己があり、したがって、自分の真の欲望と他人の声を区別できるという考え方もまた、自由主義の神話にすぎず、最新の科学研究によって偽りであることが暴かれた。(p114)

 私たちの中には、経験する自己と物語る自己という、少なくとも二つの異なる自己が存在する。(p119)

 物語る自己は経験を総計せず、平均するのだ。(p121)

 私たちが「私」と言うときには、自分がたどる一連の経験の奔流ではなく、頭の中にある物語を指している。混沌としてわけのわからない人生を取り上げて、そこから一見すると筋が通っていて首尾一貫した作り話を紡ぎ出す内なるシステムを、私たちは自分と同一視する。話の筋は嘘と脱落だらけであろうと、何度となく書き直されて、今日の物語が昨日の物語と完全に矛盾していようと、かまいはしない。重要なのは、私たちには生まれてから死ぬまで(そして、ことによるとその先まで)変わることのない単一のアイデンティティがあるという感じをつねに維持することだ。これが、私は分割不能の個人である、私には明確で一貫した内なる声があって、この世界全体に意味を提供しているという、自由主義の疑わしい信念を生じさせたのだ。(p124)


ユヴァル・ノア・ハラリ『ホモ・デウス(下)』(河出書房新社、2018年)

 とても納得のいく説明だと思った。

 自分をあまり演繹的に物語らないこと。自分という「総体」に素直になること。そうすれば、思い込みだけの「個性」も消えていくはず。

空と山と桜

Canon 25mm f3.5 L + M10-P


 空と山と桜と。


寒桜

Dallmeyer 1inch f1.8 + E-PM1


 寒桜。


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