naotoiwa's essays and photos



 あなたは五感のうち、どれに最も敏感ですか?

 たいていの現代人は圧倒的に視覚だろう。もちろん自分もそうである。でも、視覚に負けず劣らず、自分は嗅覚に過敏な方だと思う。過去の記憶も嗅覚を中心に覚えていることが多い。その代わり、自分は聴覚はダメだ。だから、音楽家にはなれなかったし、外国語のヒアリング能力もあまり高くない。

 冬の晴れた日、公園のベンチで日射しを浴びながら目を瞑り、ゆっくりと息を吸い込む。百メートルぐらい離れたところにある露店から、コーヒーと焼きたてのクロワッサンの香りが漂ってくる。広大な池からは、ようやく暖まり始めてきた水と藻の香りがする。そこに、清々しい梅の香りが時折混ざる。

 しばらくして、背後を誰かが足早に通り過ぎていった。ふんわりと甘い薔薇の香りがした。ちょっと古風で懐かしい薔薇の香り。こんな香水を付けているのはどんな女性だろうと好奇心を抑えきれず、振り返ってゆっくりと目を開けてみる。すると、なんとそこには、高校生の男の子の後ろ姿が。……え? でもたしかに、この薔薇の香りは彼の残り香なのである。遠ざかっていく彼のジャージ服から匂ってくるのである。

 ああ、そうか。想い出した。これは、最近流行っている柔軟剤の香りなのである。クラシカルローズの香り。嗅覚がひとより敏感だと自負している男は、こうして冬の公園の片隅で苦笑いなんぞしているのである。

 でも。いずれにしても、ひとそれぞれ、五感の感覚比率が違うのである。そういうのがクオリア(感覚質)の違い、ひいては個性の違いにつながっているのではないだろうか。

 



 四畳半とし云へば、何やら茶人めいたる清淡雅致の一室を聯想すべけれど、我が居室は幸にして然る平凡なるものにあらず。と云へば又、何か大仕掛のカラクリにてもある様なれど、さにもあらず。有体に自白すれば、我が四畳半は、蓋し天下の尤も雑然、尤もむさくるしき室の一ならむ。而して又、尤も暢気、尤も幸福なるものゝ一ならむ。

石川啄木『閑天地』


我が四畳半

GR 18.3mm f2.8 of GRⅡ

dawn

GR 18.3mm f2.8 of GRⅡ


 dawn.




 三十五年ぶりに君に逢いに行った。棲んでいるところはちゃんと覚えていた。だって、あれからずっと、僕は君の棲んでいるアパアトの部屋の家賃を払い続けてきたのだから。

 鉄製の錆付いたドアを開けると、君は部屋の奥の窓を半分開けてベランダに体を半分出して、両手で両脚を抱えていた。ベランダには桜の花びらがたくさん積もっていた。ぼんやりと生暖かい風がゆっくりとこちらに流れてきた。
 部屋の中には三十五年分の埃が真綿のように白く積もっていた。床にも書き物机にも、鉄製のベッドに載せられたマットレスの上にも。その埃は生暖かい風に吹かれて、ほんの一瞬宙を舞ったが、すぐにもとの状態に収まっていった。

 やあ、と君は言って、ゆっくりとこちらにやって来た。そして、ベッドのマットレスに腰をかけるようにと僕に目配せをした。「なんだか甘い香りがするね」と僕が言うと、「さっきまで彼女がここにいたから」と君は言った。「彼女とはうまくやっていけそうか?」と僕が尋ねると、「それはこっちが聞くセリフだよ」と君は言った。書き物机の上の小さなスピーカーからシューベルトのピアノソナタが流れていた。「好きな曲もあまり変わらないね」と僕が言うと、「それもこっちのセリフ」と君は言った。

 それから、君は改まって、じっと僕の瞳を見つめながら、「久しぶりだね、その後どうです?」と言った。その口ぶりが中原中也の詩とまったく同じだったので、僕も、「そこらのどこかでお茶でも飲みましょ」と続けた。そうして僕は、君を部屋の外に連れ出すことにした。

 並んで歩いているふたりの背丈はほとんど同じだった。「毎日、この道を駅まで歩いて会社に通っているんだ」と君は言った。道は所々、昨日の雨でひどく泥濘んでいて、君の新調した革靴はすぐに薄汚れてしまう。



 最近、いくつかの講演で、あるいは、大学のゼミ生に、「わたしのなかのたくさんのわたしたち」……なんてことを言ったりする。多重人格? ジギルとハイド? いえいえ、そういった二律背反的なことではなく。

 平野啓一郎さんも、『私とは何か』で「分人」について述べている。ドミニク・チェンさんたちが事業をする際の会社名は「ディヴィデュアル」である。

 individualではなく、dividual、dividuals。個人とはそれ以上分割できない存在。それこそがアイデンティティ? いえいえ、わたしのなかにはもっとたくさんのわたしたちがいるんじゃない? じゃあ、個性ってなに? たぶん、それは、たくさんの自分の束ね方のクセみたいなものなのでは? 

 『ホモ・デウス』の下巻を読んでいたら、こんな文章があった。

 自分には単一の自己があり、したがって、自分の真の欲望と他人の声を区別できるという考え方もまた、自由主義の神話にすぎず、最新の科学研究によって偽りであることが暴かれた。(p114)

 私たちの中には、経験する自己と物語る自己という、少なくとも二つの異なる自己が存在する。(p119)

 物語る自己は経験を総計せず、平均するのだ。(p121)

 私たちが「私」と言うときには、自分がたどる一連の経験の奔流ではなく、頭の中にある物語を指している。混沌としてわけのわからない人生を取り上げて、そこから一見すると筋が通っていて首尾一貫した作り話を紡ぎ出す内なるシステムを、私たちは自分と同一視する。話の筋は嘘と脱落だらけであろうと、何度となく書き直されて、今日の物語が昨日の物語と完全に矛盾していようと、かまいはしない。重要なのは、私たちには生まれてから死ぬまで(そして、ことによるとその先まで)変わることのない単一のアイデンティティがあるという感じをつねに維持することだ。これが、私は分割不能の個人である、私には明確で一貫した内なる声があって、この世界全体に意味を提供しているという、自由主義の疑わしい信念を生じさせたのだ。(p124)


ユヴァル・ノア・ハラリ『ホモ・デウス(下)』(河出書房新社、2018年)

 とても納得のいく説明だと思った。

 自分をあまり演繹的に物語らないこと。自分という「総体」に素直になること。そうすれば、思い込みだけの「個性」も消えていくはず。

空と山と桜

Canon 25mm f3.5 L + M10-P


 空と山と桜と。


寒桜

Dallmeyer 1inch f1.8 + E-PM1


 寒桜。




 よく夢を見る。そして夢日記をつける。でも、うまく書けたためしがない。すぐに忘れてしまうからか? いや、枕元には手帖が置いてある。手元の明かりをつけてメモする準備はできている。だから、あらすじめいたものはスラスラ書くことができる。でも、読み返してみるとさっぱり訳がわからない。夢で見た内容があまりに荒唐無稽だからか? いや、そういうことではないのかもしれない。ベストセラーになった『サピエンス全史』の著者ユヴァル・ノア・ハラリの続編『ホモ・デウス』の中に、こんな文章がある。

 実際、人間自身も、言葉にせずに過去や未来の出来事を自覚することはよくある。とくに、夢を見ている状態では、言語によらない物語をまるごと自覚することがあり、目覚めたときにはそれを言葉で描写するのに苦労する。

ユヴァル・ノア・ハラリ『ホモ・デウス(上)』(河出書房新社、2018年)、pp157-158

 近頃、この、「言葉によらない物語」について考えることが多い。起承転結型の物語なんてつまらない。そもそもストーリーテリングという考え方がつまらない。同じ物語でも、ナラトロジー、あるいはナラティブと言われれば心惹かれる。その理由は、言葉、特に書き言葉に依存することの限界を(あるいは、その欺瞞を)我々が本能的に感じ始めているからではないだろうか。

 夢日記がうまく書けない理由もたぶんそのあたりにあるのではないか。内容が荒唐無稽過ぎるからではなくて(あるいは、物語というのは元来このくらい荒唐無稽なものだと言い換えてもいい)、ただ書き言葉に翻訳しづらいというだけのこと。我々は夢を見ているとき、体全体、脳全体、意識と無意識のその全部で物語を紡いでいるのだ。とてもナチュラルにホリスティックに。

fox

Dallmeyer 1inch f1.8 + E-PM1


 fox.




 腕時計が好きである。海外に行くと蚤の市で手巻きのアンティークの掘り出し物を探したりする。ブランドものには残念ながら手も足も出ない。でももしも、ひとつだけ好きな腕時計を買ってもいいと言われたら(だれもそんなこと言ってはくれないだろうけどw)、IWCかパネライかベルロスか、いや、やはりここはフランク・ミュラーを選ぶだろう。……フランク・ミュラー。最近は今ひとつ評判が良くないみたいだけれど、(腕時計マニアの友人に言わせると、フランクの普及モデルの自動巻きは汎用のムーブメントを使っている割に高価すぎる。パワーリザーブがあまり持続しないし、PVD塗装はすぐに剥げてくるらしい)でも、あのアールデコでビザンなデザインはやっぱりとても蠱惑的だし、複雑時計の設計哲学が他のメーカーとは比べものにならないと思う。そう言えば、どこかで彼の名言を読んだことがある。……検索してみる。……ああ、これだ。

 人生に挑戦するのに年齢なんて関係ない。そもそもこの世に時間などない。それは人間が勝手に作ったものだ。私は時計師だからそのことがよくわかる。

 この彼の哲学を反映したモデルが、例えばクレージー・アワーズなのだろう。1から12までの数字は一見ランダムにシャッフルされたように配置されている。で、正時になると短針が突然大きくジャンピングするのだ。稀代の時計師のつくった複雑時計をこっそり左手の手首に忍ばせて、「そもそもこの世に時間などない」と自分もうそぶいてみたいものだ。

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