naotoiwa's essays and photos

山神社

AF-S Nikkor 58mm f1.4 G + Df


 山神社。

 海で泳ぐより山に登る方が好き。
 釣りをするよりスキーをする方が好き。
 山族だと思う。

 

大晦日

AF-S Nikkor 58mm f1.4 G + Df


 大晦日の神社にて。


keep out

AF-S Nikkor 20mm f1.8 G + Df


 keep out.


eyelashes

AF-S Nikkor 35mm f1.8 G + Df


 eyelashes.


黄昏月

AF-S Nikkor 35mm f1.8 G + Df


 黄昏月。




 美術史学者の松原知生氏が2014年に書いた『物数寄考』が面白くて、ここのところ何度も読み返している。その理由は、本書のテーマである「骨董」にこそ、表現や美の本質が凝縮されているとつくづく感じるからだろう。例えば、本書の中でも度々使われている「現前」と「表象」。表現とはまさにこのふたつの相克であり混淆なのだと思う。ただ鑑賞するだけではなく、実際に手に取って触れられること(現前)、と同時に、距離があればあるほど、手の届かない彼方(遠い過去とか、訪れることの出来ない場所とか)にあればあるほどイメージは増幅されること(表象)。それらを叶えてくれるのが「骨董」というわけである。

 小林(秀雄)にとって、物質としての骨董が帯びる古色とは、歴史が自然の上に残す「極印」のごときものであり、(中略)それは、歴史の物理的痕跡であるという点でインデックス記号をなしており、重要なのはそうした「歴史の形骸」から「歴史の実物」を「類推」する、いわばアナロジー的な推論の技法なのである。
松原知生『物数寄考』(2014年、平凡社)p.70


 わたしは今日のものより昨日のもの、ここでできたものより、あちらでできたものの方が好きだ。つまり時間的にも、空間的にも遠くのものが好ましいわけである。遠くのものには、憧れがあり、夢があり、それ独特の、いうにいわれぬ美しさがある。(青柳瑞穂「壺のある風景」より)
同上『物数寄考』p.107


 で、本書ではそうした「骨董」の美の究極として、後半には「残欠」の話となる。

 残欠とは、残れるものと欠けたもの、現前と不在のあわいに位置する、両義的で曖昧なオブジェである。陶磁器における残欠の具体相は通常、二つのカテゴリーに分類される。すなわち、全体の形は一応のところ保たれているが一部が欠損している「疵物」、逆に、総体としての形状はもはや喪失しつつも部分的になお残存している「陶片」である。
同上『物数寄考』p.186


 彼(安東次男)が疵物の価値としてまず挙げるのは、完璧でないぶん「想像力」を自由にはばたかせる余地を見る者に与えてくれる点である。(中略)第二に、破損によってもたらされる偶然の効果の面白さが挙げられる。(中略)第三に、部分的に欠けることによって、素地や釉などの材質感がいっそう引き立つという点も挙げられる。さらに、すでに疵をおっているため「安心してあたりに投出しておける気安さ」も捨てがたい。
同上『物数寄考』p.208


 自分は古美術に耽溺するほどの素養もないし財力もないが、ひょっとして、昔からオールドレンズやカメラを収集しているのは同じ思いからかもしれない。第二次大戦以前のニッケル仕上げのカメラをいじりながらゼセッションの頃のドイツやオーストリアに思いを馳せる。
 また、以前は神経症のように瑕疵のない美品ばかりを探していたが、最近では、敢えてバルサムが切れていたり白濁したり、銘板が欠けていたりといった「疵物」を好んで買い求めるようになった。いつの間にか「骨董という病」が私の中でも進行しているのかもしれぬ。



 最近、川端康成の晩年の小説ばかり読み耽っている。『山の音』『千羽鶴』『波千鳥』『反橋』『しぐれ』『たまゆら』等々。『山の音』の尾形信吾は数えの六十二歳。いつの間にか自分も信吾と同年代になったようで、以下のような文を目にするとリアルに身につまされる思いがする。

「能面は、そうやって、やや高めに手を伸ばして見るんだそうだ。われわれの老眼の距離が、むしろいいわけさ。そうして、目は少し伏目に、曇らせて……。」

「老眼になり始めはね、飯の茶碗をこう持ち上げると、飯粒がぼうとぼやけて来て、一粒一粒が見えなくなる。実に味気なかったね。」

「白毛を抜いているうちに、北本の頭は白くなってゆくんだそうだ。一本の白毛を抜くと、その隣の黒い毛が二三本、すうっと白くなるという風でね。北本は白毛を抜きながら、よけい白毛になる自分を、鏡の中に見据えているわけだ。なんとも言えない目つきでね。頭の毛が目立って薄くなって来た。」


以上、川端康成『山の音』(新潮文庫、初版昭和32年)p.96, p.99, p.127

 さて、手元にあるこの新潮文庫、奥付を見ると第41版、昭和53年である。当時、高校二年生の自分に、敗戦後、自らの老境も迎えた川端の(『山の音』を出版した時は55歳か)いったいなにが理解できていたのだろうか。

少女

Elmar 50mm f3.5 (early) + DⅢ + Ilford HP5 plus 400



墓参りjpg

AF-S Nikkor 35mm f1.8 G + Df


 お墓参り。


背中合わせ

AF-S Nikkor 50mm f1.8 G + Df


 背中合わせ。


空模様

Elmar 50mm f3.5 (early) + DⅢ + Ilford HP5 Plus 400


 昨日も秋にはときどきある、朝もひるも夕暮れのような空模様のまま夜になるとしぐれが来ましたが、(中略)じっと耳をすましてみますと落葉の音は聞こえません。ところがぼんやり読んでおりますとまた落葉の音が聞こえます。私は寒けがしました。この幻の落葉の音は私の遠い過去からでも聞えて来るように思ったからでありました。
川端康成『しぐれ』

川端康成『反橋/しぐれ/たまゆら』(講談社文芸文庫)p.24

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