naotoiwa's essays and photos

阿羅漢

Summcron 5cm f2 L (collapse) + SOOKY + Ⅱf + Lomo100


 阿羅漢。



 原美術館。「光—呼吸 時をすくう5人」展の終了をもって、本日いよいよ閉館である。昭和十年代に建てられたアールデコの館。若い頃から何度も足繁く通った美術館である。仕事の雑事から自分を開放したくなったとき、ジャン=ピエール・レイノーの白いタイルの部屋が無性に恋しくなった。宮島達男さんの作品を初めて見たのもここである。代休を取って平日の昼間に車でこの美術館に来て(敷地内に駐車場があるのだ)、中庭に面したカフェ・ダールで遅めのランチを食べながら何時間もぼおっとしているのが至福の時だった。そこで考えをまとめて実現した企画もいくつかある。

 最後の展覧会は昨年末に予約してゆっくりと鑑賞した。亡くなられた佐藤雅晴さんの展示を最後に再びこの原美術館で見ることが出来てよかった。「東京尾行」。これからは、原美術館も佐藤雅晴さんも記憶の中でしかトレースできなくなる。




 「瀬戸正人 記憶の地図」展を東京都写真美術館で見た。瀬戸正人さんは私が90年代からずっと憧れ続けている写真家のおひとりである。
 瀬戸さんの撮るポートレイト、そのほとんどの場合、モデルたちの目線はカメラに向いていない。カメラに気付かれない瞬間を狙っているのではなく、むしろその逆で、モデルたちはカメラを意識しつつもファインダー越しに見られることに倦み、自身の内省へと沈潜を始めている。その時間帯をカメラが暴いているのだ。結果、モデルたちの個性ではなく(と、このインタビュー映像の中で作家自身も語っている)、人間そのものの本質、いや、人間を越えて生き物の本性みたいなものまでが滲み出ているように感じる。
 緊急事態宣言初日の午前中ということもあって、幸か不幸かほとんど貸し切り状態で、約二時間、じっくりと写真展を鑑賞することができた(もちろん館内の万全の感染防止対策のもと)。会場内撮影OK とのことだったが、iPhone やデジカメを向ける気分にはならない。鞄の中に古いコンタックスのレンジファインダーカメラが入っていたので、コリコリと距離計を、俯いて涙を流している女性の瞳や公園にピクニックに来ているカップル達の不可思議な肢体に合わせてみたりしながら。

 会期は今月24日まで。



 新年を迎えてもコロナ禍は収まりそうもなく、それどころか全世界的に感染拡大の勢いを増している。在宅勤務、テレワーク化を今年は昨年以上に推進せざるを得ないのかもしれない。そうなってくると、今までの働き方、学び方の常識は通用しなくなる。実際の場所に出社したり出校したりすることだけが勤務や通学ではない。仕事や学びと休日の境界、パブリックとプライベートの境界がどんどんシームレスになっていく。
 私は大学教員の傍ら、数年前からフリーランスの個人事業主として仕事をしているので、こうしたシームレス感は当たり前になっているが(日曜日にフルタイムで仕事をしていても苦にならないし、その分、どこかぽっかり空いた平日の自由を満喫する術も覚えた)、でも、どうなんだろう、やはり人間というのは、時間的な制約があって、ここからここまでは仕事(あるいは勉強)、ここからここまではフリー(自由!)と決まっていた方がココロがトキメク生き物なのかも。

 私が小学生、中学生、そして高校生だった1960〜70年代は、土曜日はまだ完全休日ではなかった。いわゆる「半ドン」というやつで、でも、だからこそなおのこと、あの土曜日のお昼時の開放感(小学生ならば集団下校の時のあの気分、中学生・高校生ならば、校門を真っ先に抜け出し遊び場に向かう時のあの気分)は格別だったようにも思う。私が1984年の時点で就職した会社もありがたいことに既に土曜日は完全に休日だったし、日本のおける週休二日制の歴史はけっこう長い。その結果、休日前の開放感を堪能する日は前日の金曜日へとスライドし、当時「キンツマ」的ドラマが放映されたのだろうけれど、でも、今思い返してみても、あの土曜日の「半ドン」気分は格別だった。半分休み、というのがいいのだ。

 ところで、「半ドン」のドンは「ドンタク」のドンである。ウィキペディアによると、zondag、オランダ語で日曜日を意味する言葉の日本語訛りらしい。ちなみに、現在私は竹久夢二をテーマにした論文を書いているが、夢二の絵入り小唄集のタイトルは『どんたく』であり、彼が大正12年につくった商業デザインの会社名も「どんたく図案社」である。

 限られた休日(ドンタク)があるからこそ、平日の働き甲斐(学び甲斐)があり、休日への開放感にココロがトキメクのかもしれない。これからの時代は、それを自分自身でコントロールし、自分だけのドンタク、あるいは「半ドン」を演出していく必要があるのかも。



 大学教員になって今年で早や5年目を迎える。言うまでもなく、大学教員のミッションは研究と教育であるが、実務経験で採用された(と認識している)自分に何が求められているかは十分理解している。それゆえ、この4年間は特に学部教育に全力を費やしてきた。しかしながら、元来あまのじゃくな性格のワタクシとしては、期待されてない(?)研究分野においてもなんとか自分らしさを出せないものかと、大学の紀要には毎年一本は欠かさず論文もしくは研究ノートを書こうと決めている。(現在執筆中のものが完成すると4本目となる)が、やはり今まで生業にしてきたことが「いかに語るか」であった自分が「いかに論じるか」に徹するのには限界もあろうし、アカデミズム出身の同僚のみなさんのような高度なモチベーションを論文執筆に持ち続けることは能力的に難しい。(やはり、諸先輩方のものと比較すると自分が書いたものは明らかに「語り口」ならぬ「論じ口」が違うようですw)

 でも、ここ一二年、私はワタクシなりに論文執筆の醍醐味みたいなものを感じ始めてきたような気もする。誤解を恐れずに言えば、それを detective と表現してもいいのかもしれない。分野の全く違うコレとアレがなんとなく繋がっているような予感がする。それが自分の仮説で、その一見脈絡のなさそうな二つの事象を繋ぐ証拠を detective に探していくのだ。あるいは、先行研究等でよく言われていることの余白部分になにか別の大切なことが潜んでいるような予感がする。そのおぼろげな姿を detective に解き明かしていくのである。

 そして、いったんこうした作業に没入すると、部屋はおびただしい数の古書の巣窟となる。電子書籍ならばどんなに冊数が増えようともタブレット一台にスマートにダウンロードすれば事足りるが、特に近代文学系の研究の場合、その初版本を実際に入手しないと埒が明かない場合が多く、「日本の古本屋」サイト等で購入した黄ばんだカビ臭い、あるいは型崩れした初版本たちが堆く積み上げられた巣窟にひとりで籠もることになる。残念ながら優秀なワトソン君はいないので、資料集めから調査出張、そして執筆まですべて自分ひとり。でも、この作業がけっこう楽しいのである。ドキドキするのである。そして、ひとつ書き終えてもすぐにまた次の解き明かしたい別のテーマが待ち構えていたりするのである。



 また、右眼が痛いのである。

 去年の夏、右の眼球を傷つけてしまった。不注意にも紙の束が眼に入ってしまって、まるでブニュエル監督の「アンダルシアの犬」の冒頭シーンみたいに(というのは大げさであるが)、サアっと角膜を鋭利にトレースされるのが自分でもわかった。翌朝、大きな異物が混入したような痛みで眼が開けていられなくなり涙がとまらず、眼科に行った。「ああ、たしかに角膜に傷が付いてますね。線状に上皮が剥がれています。これは痛いでしょう。でも、眼球も他の皮膚と同じです。擦り傷が次第によくなっていくように一週間もすれば徐々に治っていきますからと」と点眼薬をふたつ処方してくれた。「ティアバランス」という角膜の傷を治す成分のものと「ガチフロ」という炎症止めの抗菌剤である。確かに、一週間程度で痛みは治まっていった。時折違和感は少しばかり感じるものの、幸いにも傷は黒目の部分にはかかってないようで視力に影響はない。

 しかし、十一月頃からまた痛みがぶり返してきたのである。夏に行った眼科医は「また別の場所が傷ついたのかも」とのことだったが、なかなか痛みが治まらないので別の眼科に行ったところ「正式の病名は、再発性角膜上皮びらんです。半年前の傷が再発しているんでしょう。冬になって空気が乾燥してきたことも原因だと思われますが、ちょっとしたことで、せっかく埋まったはずの角膜の上皮の傷がまた剥がれてしまうんです」とのこと。治療方法は同じだが、痛みが治まっても当分は点眼を欠かさない方がいいというアドバイスを受けた。「あの、先生、コンタクトはいつ頃からまた付けられるようになりますか?」「……もう、お付けにならない方がよろしいかと」

 昨年末のこの宣告はちょっとショックであった。ふだんは眼鏡ばかりであるが、スポーツ、特にスキーをする時にはソフトコンタクトが欠かせなかったのだが、それももうダメである。そして、最後に先生が言ったひとことが身に染みた。「加齢とともに角膜の傷も治りにくくなります。そして、治ってもちょっとのことで再発してしまいます」……眼球だけではない。年を取ると、体中のどこもかしこも、一度でも怪我や病気をするとなかなか完治しないということなのだろう。もう無茶はできないのだ。六十歳が間近なことを身をもって知らされる「再発性角膜上皮びらん」である。



 今年は丑(うし)年である。自分の干支と同じ。ということは、年男? ということは、つまり……。そうなのである。今年の誕生日で五回目の年男、還暦を迎えるのである。(目眩がしますw)
 昔、実家の和室の床の間に二頭の牛の置物が飾ってあった。大きな牛と小さな牛。父が昭和四十年代に買ったものである。私は父が三十六歳の時の子で、どちらも干支が同じなのである。親牛と子牛。

 さて去年は、……六星占星術によると私は去年から大殺界に入っているのだが、全世界がパンデミックな状態で、どこまでが自分ひとりの運気の問題だったのかまるで見当がつかない。

 そんな中、大学の研究分野では論文をひとつ仕上げた。現代の広告クリエイティブにおける実在論的傾向に関する考察で、今年2月に公開予定。そして、引き続き次の論文ももうすぐ第一稿があがる。(こちらは竹久夢二のノスタルジア研究)大学の授業も試行錯誤の連続だった。でも、オンラインだってここまでのことは出来るという目処が自分なりには付いたと思っている。ご多分に漏れず個人でお受けしている仕事は激減した。これから、大学の教育と研究と個人の仕事の両立をどのように図っていくべきか、思案のしどころではある。でも、戸惑っていても何も解決しない。事態が安易に元に戻るとは考えない方がいい。去年一年間でこの世界の価値観が大きく変わってしまった。今年もそれを受け入れて前に進むだけである。

 年末年始は安藤鶴夫さんの古い小説なんぞを読んでいた。『巷談 本牧亭』。この作品が直木賞を受賞したのは昭和三十八年。私が生まれた二年後である。親牛が若かった頃の時代の匂いを嗅いでみたくて。親牛は六回目の年男を迎えた年に(誕生日を迎えることなく)この世を去ったが(生きていたら今年八回目の年男)、さて、子牛の方はいかに。


 
 男の私に対しては、姉ほどの思い入れはなかったのかもしれない。けれども、姉と同じように、小さい頃から、よくもまああれだけのものを当時の地方都市で見つけ出せたと感心するくらい、たくさんの習い事を見つけてきては私にあてがった。習字、ピアノ、シロフォン、少年合唱団。それだけではない。パリ帰りの画家先生を見つけてきて、油絵も習いに行かされた。毎週、先生のアトリエに行って風景画や静物画を描かされる。今でもテレビン油の匂いを嗅ぐとあの頃のことを思い出す。かといって、母は私を芸術家にさせたかったわけではないのだ。
 中学に入ってからは、弁護士になれ、医者になれ、という定番のことを言い出した。で、まずは英語塾。そして、数学が苦手だと察知するやいなや家庭教師を探した。たいがいは当時大学生の姉のボーイフレンドたちが、弟の私を手なずけようとして(?)その役を買って出てくれたのだけれど。しかし、いくら家庭教師を付けられても典型的な文系のアタマしか持ち合わせていなかった私に数学や物理の上達は無理。それでも高校三年生の時、この母の思いに感化されたのか情にほだされたのか、理系に転向し(医学部を目指すためだ)、結果、案の定一年間棒に振って浪人生活を送る羽目になった。翌年にはさすがに母も諦めて、当初の予定通り文系の大学に再チャレンジすることを黙認するのだが、行きたいと思っている学部名を告げると、「そんなところに行って、将来いったいなんの役に立つと言うのかねえ」。でも、その母が美しい筆致で半紙に和歌を書いたり、古風な日本語で日記を綴っていたのを私は知っている。その後、私は東京の大学に通った後に広告会社に入社することになるのだが、幸い入社できたのが業界一位の会社だったこともあって母の自尊心はかろうじて満たされたようである。
 さて、私は東京で四年間一人暮らしをしていたが、私のアパートに母が訪ねてきたのはたったの一度きりである。それは、大学四年の冬のこと。その頃はまだマスコミの就職活動の解禁は名実共に秋以降で、当時は各企業からの合否の連絡は電話か電報のみで(メールなんてまだ存在しなかった)、本人不在時に代理で連絡を受けられるのは肉親に限られていた。ゆえにこればかりは近所に住んでいる友人にも、付き合っていたガールフレンドにも頼めず、やむなく母に上京して来てもらうことにしたのだ。当時私が住んでいた下宿は井の頭公園のそばにあって、母は部屋を見るなり、「なんて古くさい部屋なのかねえ」と感想を述べた。ベッドも机もクローゼットもアンティークの家具で揃えていたのが彼女のお気に召さなかったらしい。「若者らしくない部屋だねえ。それに、このアパート、駅から遠過ぎる。なんでこんなところをわざわざ選ぶのかねえ」。でも、この部屋の窓からは井の頭公園が一望だし春には公園の桜が散ってベランダが花びらでいっぱいになるんだ、などと私が言っても、「風流なことだねえ。でも、そういうのがいったい何の役に立つと言うのかねえ」。あの時、二十一歳の男と五十三歳のその母親という、なんとも居心地の悪い組み合わせのふたりが狭い部屋の中で数日間いっしょに寝起きをともにし、いったいどんな話をしていたのだろうか。今となっては詳細を思い出すことはできないが、なぜだか一言、私は母に「ありがとう」と言ったことだけは覚えている。母はなんのことだかと怪訝な顔をしていたが。おそらくあの時、私はそれまでの人生の中でいかにたくさんのチャンスを母から与えられ続けてきたのか、そのことを改めて思い起こしていたのだと思う。習字もピアノもシロフォンも少年合唱団も、そして油絵も、それらがみんな現在の自分の糧になっていることを直感的に理解したからもしれない。
 そんな母は、父が死んでから十六年間、ひとりで大垣の家に暮らした。「よお、未亡人」と私がおどけて声をかけるとまんざらでもない顔をしていた。父の残したいくばくかのお金で生活に不自由することはなかったが、預金通帳の金額が増えることがいっさいなく、ただただ毎日減っていくだけのを見ているのはなんとも恐ろしいものだ、と言っていた。やはり姉か私と同居したかったのではないだろうか。でも、それぞれの配偶者に気をつかって生活するのはイヤ、ひとりの方が気ままでいい、というのも本音だったろう。思ったことをズバズバと、イヤなものはイヤ、と言い切る母。それは美人に生まれついた女性の特権か、はたまた業だったのか。
 その母は八十三歳の時、自分の母親と同じ悪性リンパ腫になった。姉や私が病名の告知に立ち会った時、彼女は「先生、直してください!」と気丈に言いつつも、自分の母親と同じ病気と知って「やっぱりなあ」と覚悟をしていたようでもあった。夏に入院して、その後、計七回にわたる抗がん剤治療で血液中のほとんどのがんが寛解したが、翌年の春に脳に転移をしてしまい、処置の施しようがなくなった。
 大正十四年生まれの父と昭和五年生まれの母が結婚したのは昭和二十五年と聞いているが、戦後、ふたりはどのように出会い、どのような約束をかわしながら家庭を築いたのだろうか。父が母の実家近くに下宿していたことが縁だったという話を姉から聞いたことはあるが、それ以上の詳しいふたりのなれそめは知らない。母が自分の父親が持ち込んできた縁談を断るために父と駆け落ちした、なんて話を誰かから聞いたこともあるが、真偽のほどはわからない。その秘密はそのままにしておいて、最後に、以下のようなふたりの新婚直後のエピソードをもって両親のことを語るのはいったん終えることとしたい。この話を私は、母が亡くなる四年前の春、珍しくふたりで根尾谷へ花見に行ったときに聞いた。薄淡桜はもうほとんど散ってしまった後だったけれど。

 戦後まもなく結婚したふたり。父は若くして奮起し自分たちのマイホームを建てた。ある日、その新築の家を留守にして、ふたりは夕刻、近くのダンスホールに行った。母は流行のモガ系のファッションに身を包み、父は髪をリーゼントでキメて白いエナメルの靴を履いて。そして、ダンスホールから帰ってくると自分たちの家に明かりが灯っているではないか。あら、消し忘れて出てきたのかしら?
 ところが、どうやらそうではなかったのである。裏口から覗いてみると、居間に見知らぬ男が座っていた。なんと、泥棒である。そして、その泥棒は、ふたりが帰ってから食べようと戸棚にしまっておいた鮭の切り身の焼いたのをむしゃむしゃと食べていたのである。父はその現場に踏み込んだ。泥棒は逃げるに逃げられない。母は泥棒の顔を見た。なんとも気の弱そうな顔をしていた。ふたりは怒るタイミングを逸してしまった。まあ、いいんじゃない、と彼女は言った。他には何も取られていないようだし。そうして三人で食卓を囲むことにした。「どこのどなたか知らないけれど、ここに白米も少しだけならあるわよ」。

 なんともなごやかなエピソードである。おそらく昭和二十年代にはそういうことも起こり得たのだろう。それにしても、気性の激しい母の人間としての優しさ、柔らかさの一面を感じさせてくれるエピソードである。自分が生まれるずっと前に、父と母がそんな素敵な若き日々を送っていたことを知って私はとても嬉しく思った。
 でも、時は残酷そのものである。そんな若き美しき日々も、やがては跡形もなく消え去っていく。そして、最後にひとは誰もが白骨となるのだ。まさに「朝には紅顔ありて、夕には白骨となれる身なり」(蓮如上人)である。残された者にできることは、せめて野辺送りに相応しい場所を彼女にかわって探すことぐらいだった。深い山の懐へ彼女の魂が帰って行ってくれたのなら、と思うばかりだ。



 今年もあと二日で終わりである。夏に父のことを書いた。では、寒波が近づきつつある年の瀬に、母のことも。

 私の母は大垣市の船町に生まれた。四人姉妹(ひとりは弟)の次女。昭和五年生まれ。終戦の時は十五歳。女学校に通っていたときの写真が何枚かある。美少女である。理知的な目をしている。そして、とても意志が強そうな表情をしている。
 とにかく、物事をハッキリとしないと(そして言わないと)気が済まないタチのひとだった。イヤなものはイヤ。おべっかは使わない。近所に年の少し離れた姉が住んでいて、ときどき遊びに来ていた。実家を弟が継ぐようになってからは互いに行き来もあったようだが、せいぜいがそのくらい。親戚付き合いも近所付き合いも好きじゃない。
 悪性リンパ腫で五十代に早世した自分の母親のことをとても慕っていた。のちに、母自身もこの同じ病気で八十三歳の生涯を閉じることになる。反対に、自分の父親のことはあまりよく思っていなかったようだ。
 物心がついた後の私が知っている母は、とにかく美しい人だった。そして、激しい人。同時に憂鬱な人。佐久間良子に似ている、とよく言われた。小学校の授業参観の時には級友たちに羨ましがられた。でも、来ないときも何度かあった。母は何度か入退院を繰り返していた。私が中学生の頃はとくに多かったように思う。入院といっても器質的な大病を患っていたわけではない。食欲不振とか吐き気とか頭痛が続くといった不定愁訴で、そうした症状が出始めると母はさっさと自分で荷物をまとめて病院に電話をかけ、院長先生と交渉して入院手続きを取る。そして二週間ほど病室に入り、元気を回復して戻ってくるのだ。ある意味、入院することで日常のストレスを解消しているようにも思えた。
 健康面でなにか不安なことがあったら、すぐに病院に行って検査を受ける。胃カメラでも大腸カメラでも、脳のCTスキャンだってなんだってあっという間に済ませてしまう。すぐに結果を知りたい人だった。ウジウジしているのが大嫌い。「果報を寝て待」ったりはしない。ノロノロしているひとを見ているとイライラする。口癖は「はよ、はよ」(早く早く)である。「はよ、まわしせんかね」(「まわし」も岐阜や名古屋の方言で「支度」の意)。家に帰るとき、家に近づく百メートルも手前から既に鍵をハンドバックから取り出している。鍵に付いていた鈴の音を聞く度に、隣にいる私は、ああ、また母はせっかちにこんなに早くからもう家に帰る「まわし」をしているのだなと思ったものだ。
 父にも喧嘩っ早くて短気なところがあったが、母の場合はレベルが違った。ふたりが仲違いをするときはいつも決まって先に啖呵を切るのは母の方である。あれは私が小学校の五年生頃だったか、家族でドライブをしていて車中で父と母が口論になったことがあった。場所がどのあたりだったかは定かではないが、他の車が全く通らない山間の淋しい道でのこと。突然、母は「ここで降りる!」と宣言すると助手席のドアをバタンと閉め、ひとりで山奥に向かって歩いていった。父はクルマを徐行させながら窓を開けて体を乗り出してしきりになだめているが、母は頑としてクルマに戻らない。「ついてこないで」。時刻は五時を過ぎ、もうすぐ日が暮れる。次第にまわりの視界が暗くなっていく。そんな中、母はひとりでどんどん薄闇に向かって歩いて行ってしまう。それを、後部座席に座っていた私はじっと見つめていた。今でも鮮明に脳裏に残っているのは、あのときのシャネルスーツを着た母のすらりときれいに伸びた脚とマロン色をしたハイヒールである。
 母は料理をつくるのがあまり好きではなかったようだ。朝食はいつも同じメニュー。厚焼きのトーストにハムとゆで卵、飲み物はアッサムティー、デザートはイチゴが五粒と決まっていた。昼は、夏は冷や麦、冬はうどん。夜は何を食べていたのだろう? ハンバーグ? エビフライ? 残念ながら、これぞ母親の味というような料理を思い出すことができない。ただ、日曜日の昼によくつくってくれたお好み焼きのことだけは覚えている。大きな鉄板プレートの上で小麦粉をしゃもじの裏側でのばして焼くのだ。母のお好み焼きはソースを使わない。醤油で味付けをして、乗せる具も薄切りの豚肉とネギとショウガぐらいで、京都の一銭焼きみたいにさっぱりとしていて何枚でも食べられる。でも、それ以外の料理のことはなかなか思い出せない。その代わり、父とふたり、今日はどこで何を食べようかと外食の相談をしていた記憶ばかりが残っている。
 しかし、同じ家事でも掃除は大好きだったようである。というよりも、几帳面にいつも掃除機ばかりかけていた。父や姉や私が服を脱ぎ散らかしたり、あちこちにモノを置いたりすると、次の瞬間、それらはたちどころに洗濯機や戸棚の中に収まっていく。カオスが許せないのだ。おそらく、母は何事につけてもかなりの潔癖症だったのでないだろうか。
 そんな母が生涯かけて一番熱心にやってきたこと。それは、自分の子どもたちに対する教育だったのだと思う。まずは、私の姉に対して。姉は私より九歳年上で、私が小学三年生の頃には既に高校生。県内一の進学校に入学していた。彼女は父の運動神経の良さを受け継いで陸上競技の選手だったし、幼い頃からピアノレッスンを続けていて、音楽大学に入ってプロになる可能性も十分あったという。けれども、彼女は陸上競技やピアノでプロになることはやめて進学校を選んだ。それには母の強い意志が働いていたのかもしれない。これからの女性は職業婦人として自分ひとりの力で稼ぐ力を身につけなくてはならない。そのためにはまずは学歴を積み重ねることが大切。それが将来安定した収入を得る最善の道。ピアニストになるというのは母にしてみれば賭博性が強すぎたのだろう。
 母は自分がやりたくてできなかったことを自分の娘に託したのであろうか。戦中戦後のあの状況下で、女学校を出てからも学問を続けるのは困難なことであったろう。自分の父親に学問の道を閉ざされてしまったのかもしれない。その後、父と結婚して専業主婦になるが、自分の娘には、男に引けを取らない学問と教養と身につけさせ、安定した収入を稼げる職業に付いてもらいたかったのだろう。

(続く)



 オールドカメラ&レンズファン歴も、かれこれ四十年。かなりヘンクツなタイプなので、二眼のローライも、他の人が持っていない(実用性がなくて持とうとも思わない)ものばかりが手元にある。(値段も安かったし、、)
 例えば、ベビーローライばかりが三台もあるのだ。127フィルム専用である。大丈夫、今でもちゃんと127フィルムは手に入る。現像を引き受けてくれる店もある。スキャンするときのフィルムフォルダーも自作した。
 所有しているのは、まずは、戦後のベビーローライ。ただし定番のグレーではなくブラックタイプ。1963年製。レンズはクセナー。それに加えて戦前のものが二台。一台目は最初期のtype1、1931年製。ロゴがクラシックでとにかく格好いい。ローライスタンダードの原型となったデザインだ。レンズはテッサーのf3.5。そしてもう一台は、通称スポーツと呼ばれるtype4で、1938年製。ロゴが浮彫になった。こちらは同じテッサーでもf2.8。
 完璧な写りを狙うときは戦後のものを使う。でも、これ、けっこう重くて680グラムもある。サイズはノーマルなローライに比べれば小さいが、重さはローライコードとたいして変わらない。で、最近は戦前のものを持ち出すことが多い。type1は490グラム、type4でも540グラム。35ミリのカメラよりもコンパクト。でも、4×4判だから解像度は圧倒的に高い。
 とはいえ、さすがにどちらも1930年代のもので、レンズのコーティングも痛んでいるし、フィルム装填も赤窓で番号を確認するタイプ。取り扱いはかなりやっかいではあるが、古い時代のテッサーはシャープさの中に柔らかさがあって、デジタルでは再現できない妙な「色気」を感じる。

 カバンの片隅に戦前のベビーローライをちょこんと忍ばせての散歩が好きである。

幹

Tessar 60mm f2.8 of Baby Rollei type4 + rerapan400

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