naotoiwa's essays and photos

秋の寺

Summilux 50mm f1.4 1st + fp


 秋の寺。




 突然、いろんな人が語りかけてくる。ふいに、路地の奥から。あるいは木洩れ陽に乗じて。何も変わってはいない、と。ずいぶんと変わってしまった、と。

 秋の陽射しはシルエットを長く伸ばす。でもそれは、この世界に実態なんてありはしないと嘲笑うような薄っぺらい影だ。これだから、秋は始末に負えない。

 高い秋の空から逃れたくて、私は古い木製の階段を登り、屋根裏部屋に閉じこもる。分厚いカーテンを引いて、そこで、日が完全に暮れるのを待つ。

 20時。もう大丈夫だろうと思ってカーテンを開けると、目の前に、まるでイタロ・カルヴィーノの小説に出てくるような、大きな、ぬめぬめとした月が黄金に輝いている。ほうら、思った通りだ。これが秋の本性なのだ。

 再び分厚いカーテンを引いて、私はまた暗闇の中に閉じこもる。月が上空に消えてしまうまで、秋の空が清澄な星の光だけになるまで。


清流

Summilux 35mm f1.4 2nd + fp


 清流。




 子どもの頃、歳をとった大人たちの歯を鳴らす音がイヤでイヤでたまらなかった。シーシー、チィッチィッ、シーハーシーハー。そうやって、爪楊枝を併用しながら歯の隙間に詰まった食べカスを取り除くのだ。そうして、彼らには厭な口臭があった。近づくと甘ったるい汚臭がぷんとした。幼い頃のボクは、彼らの歯を鳴らす音とその口臭を、憎悪していた。

 昨日、久しぶりに開高健さんのデビュー作『パニック』を読み返していたら(芥川賞作家の大岡玲さんが岩波文庫で『開高健短篇選』を出されています。大岡玲さんとは光栄にも現在の本務校でごいっしょさせていただいていています)以下のような文章が出てきた。

 課長は胃がわるいのでひどく口が匂う。出入業者に招待された宴会の翌朝など、まるでどぶからあがったばかりのような息をしていることがある。生温かく甘酸っぱい匂いだ。口だけでなく、手や首すじからもその匂いはにじみ出てくるようだ。白眼の部分にある黄いろくにごった縞を見ると、いつも、この男はくさりかけているなと思わせられる。

 課長は楊枝のさきについた血をちびちびなめた。俊介は息のかからないように机から体をひき、相手の不潔なしぐさをだまって眺めた。課長はひとしきり派の掃除をすませると、眼をあげ、日報の綴りをちらりとふりかえってたずねた。


開高健 / 大岡玲(編)『開高健短篇選』(岩波文庫)、pp11-12


 『パニック』における鼠のおぞましい異常繁殖と死の舞踏のイメージが、この課長の口臭の描写と見事に呼応している。

 さて、自分も今や、当時憎悪していた大人たちの年齢になってしまった。で、彼らがシーハーしたくなる気持が今ではよくわかる。歳をとると歯茎が後退してどうしても歯の間に隙間や歯周ポケットができてしまうのだ。そこに食べカスが溜まる。手のひらを口の前にかざして自分の息を吹きかけてみたら、ぷんとかすかにあの匂いがした。……自分もついに「くさりかけて」きたのだろうか? 

hyacinth

Summar 5cm f2 + fp


 hyacinth.

参道

sigma 45mm f2.8 DG DN + fp


 参道。


行く秋

GR 18.3mm f2.8 of GRⅢ


 ゆく秋。




 来年はいよいよオリンピックイヤー。ここ数年、話題は2020年で持ちきりだったし、それに伴い、1964年の第18回東京オリンピックを懐古するテレビや雑誌の特集が組まれることも多かった。
 1964年。自分はまだ3歳だったのでなにも記憶はないのだが、1964年と聞けば、戦後の高度成長を達成していく輝かしいニッポンというイメージで、そこに、映画「ALWAYS 三丁目の夕日」で描かれていたような昭和ノスタルジーがブレンドされる感じ。でも、実際のところはどうだったのか?

 先週、NHKでこんな特番をやっていた。「東京ブラックホール 破壊と創造の1964年

 なんとなくは知っていたけれど、女子バレーボールの北朝鮮選手団帰国の件、そして会期中の中国の核実験等、華やかな東京オリンピックの裏側で同時進行していたさまざまな出来事をこの番組は鋭く抉り出していて、いろいろ考えさせられることが多かった。久しぶりにマキャヴェリズム、という言葉を思い出した。

 この番組を見逃した人はオンデマンドでもなんでもちゃんと見た方が良いと思う。ドキュメント+ドラマとしてもなかなか洒落た演出だったし。



 喉がチリチリする。風邪かな? 熱はないようだけれど(ま、歳をとると体の反応が鈍くなるからあまり熱も出ないんだけれどね)、でもやっぱり体がだるい。

 ベッドに仰向けに寝ころんで耳にワイヤレスのイヤホンを突っ込み、apple watchでミュージックアプリを開く。チリー・ゴンザレスのピアノソロを選択する。apple watch、アナログの腕時計が好きなので今まではずっと敬遠していたのだけれど、やっぱりこれは便利。手元でほとんどのことがコントロールできる。リューズ部分を回せば音量調節も瞬時だ。




 それから、仰向けになったまま本を読み始める。一年遅れで文庫本になった江國香織さんの小説だ。冒頭でいきなり自分と同じ年齢の男の話が出てきてドキリとしたが、どうやらこれは作中作で、ほんとうの主人公は別にいるようだ。

 三十分も読んでいたらウトウトしてきた。いつのまにかブックカバーが外れてしまっている。ゴンザレスのピアノ曲も二番目のアルバムに移っている。細かい雨が降っている。水滴が窓硝子の表面で蠢いている。

 えっと、どこまで読んだんだっけ? ああ、ここからだ。

 これは地の文なのか、またまた作中作なのか。頭の中がぼんやりしている。頭の中にも少しずつ外の湿気が浸食してきてだんだんよくわからなくなってくる。ただ寝ぼけているだけなのかもしれないし、浅い夢を見ているのかもしれない。あるいはその夢の中でまた別の現実が始まっているのかもしれない。




 池袋界隈はふだんの活動範囲ではないのだけれど、先日、東武東上線沿線に出かける用事があったので、かの梟書茶房に寄ってみた。オープンして二年ばかり。池袋駅直結Esolaビルの中にある。ま、流行のブックカフェなんだけど、ここ、売ってる本が全部袋とじなのである。題名も表紙も明かされず、ブックディレクター、編集者の柳下恭平さんのセレクト文章だけを読んで購入するしくみ。なるほどシークレットブック。本の阿弥陀籤とも言えるかも。蔵書は約1200冊。

 自分のようにかなりの本好きを自認している者にとっては、このシステム、正直言ってなんだかまどろっこしさも拭えないのであるが、時には自分の価値観から解放されて、まるごと他人のキュレーションに委ねてみるのも快感かもしれない。計画的偶発性というやつである。サイフォン抽出の珈琲もおいしいし(あのドトールが経営)、「アカデミックエリア」と称された場所はじっくりと腰を据えてひとりシェアオフィス的にも使える。

 美術本や稀少本は依然として紙の書籍の意味はあるけれど、電子書籍がスタンダードになりつつある今、小説やエッセイの単行本・文庫本が紙であることの価値を再創造する手立てとしてはアリだと思った。なにより楽しい。袋とじだから梟書茶房と言うのだそうなw (だったら、入っているビルの名前Esolaは、ひょっとして「絵空事」のことかと勝手に想像してしまう)

 誰かに本をプレゼントするのにはたしかにこの袋とじシークレットブック、いいかも。(でも、その際にはプレゼントする方としてはやはり、中身がなんなのか知ってはおきたいのだけれど)

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